ちょいと遅いですけど、村上春樹文藝春秋4月号インタビューについて。
 
 
はっきり言ってあまりいい印象は持っていません。

日本で受賞が報道されてから、パレスチナ問題について活動している人たちから問題提起があったのは、有意義なことだったと思いますよ。僕にはももちろん言い分はありますが、どんなことだって賛否両論あって当然だし、たとえ僕が批判の矢面に立ったとしても、パレスチナで起きていることについてより多くの人が興味を持ってくれれば、それはそれで意味があります。大事な問題ですから。

ただ一方で、自分は安全地帯にいて正論を言い立てる人も少なくなかったように思います。たしかに正論の積み重ねがある種の力を持つこともありますが、小説家の場合は違います。小説家が正しいことばかり言っていると、次第に言葉が力を失い、物語が枯れていきます。僕としては正論では収まりきらないものを、自分の言葉で訴えたかった。
(強調は、itumadetabeteru)

 
「正論を言い立てる人」と小説家を対比して「小説家が正しいことばかり言って」いてはダメだと言うという事は、「正論」という言葉を「正しいこと」という意味で使っているのでしょうか?*1
 
しかし、ここで言う「正しい」とはなんのことだろう?村上春樹は「正しい」という言葉を独特な用法で使っているように思えます。というのも、僕には村上春樹自身が一貫していわゆる一般的意味での「正しさ」を追求しているようにしか見えないからです。
 
例えば、彼はスピーチの中で、小説家は嘘をつく、と言っているのだけれど、しかし、そのすぐ後で、巧みな嘘は真実に新しい光を当てることができるとも言っています。言ってみれば、最初の「小説家は嘘をつく」というのは、「小説家は虚構によって(通常はつかめない)真実の尻尾をつかむ」という(当たり前といえば当たり前の)ことを強調したいがための偽悪的な表現に過ぎません。で、真実を追求しようとする姿勢について言えば、これを正しくないなどと言う人は、あまりいないような気がします。
 
また、システムの側でなく卵の側につくことにしたって、このことの正しさを否定する人なんているんでしょうか?もちろん、ここでも彼は「卵がどんなに間違っているとしても」という、小説家らしい巧みなレトリックとしての偽悪的表現を付け足すことを忘れないのですが、もちろん、「卵の側につく」ことは「卵が正しいと主張する」というようなことではないわけで、こんな付け足しは不要といえば不要です。要するに、ここでも正しさが疑われているわけではないのです。
 
このように、ところどころ偽悪的表現が使われ、彼自身も(なんらかの正しさを前提にして(=ドグマ化して)はいても)「〜が正しいんだ」などと野暮ったい言い方は決してしませんから*2、一見、彼は「正しさ」というものを疑っているかのように見えてしまうかもしれません。でも、僕には、それは単なる文学的表現の問題でしかなく、彼は一貫して自分の正しさを文学的に証明しているようにしか見えないのです。もしかしたら、彼は自分が正論を述べていることに気がついていないのかもしれませんが、それだとしたら、色んな意味で憂鬱です。
 
こんなまったく健全で「正しい」ことを小説家に主張された後で、その当の小説家に、正論を言い立てる人がいるが小説家は正しいことばかりを言っていてはいけないんだ、みたいなことを言われても、僕には意味がよく分からないのです。「正論=正しいこと」であるなら、正論を言っているのはあなたではないですか、と言いたくなります。
 
誤解のないように言っておけば、僕は「正論を言っている」ことで村上春樹を批判したいのではなく、むしろ正論だから納得しているのです(限定的に)。村上春樹のスピーチの内容は、浅田真央風に言えば「ノーミス」だったと思います。「ノーミス」でしかないとも言えますが。とても当たり障りのない普通のことを言っていたと思います。「当たり障りがない」なんてちょっとひどい言い方ですけど、でもこれは村上春樹のスピーチが当たり障りがないということであって、やはりあの場でこういうスピーチをしたということに関しては、僕は敬服しております。この点に関してはmojimojiさんの意見に同意です。村上春樹佐藤優を混同してはいけないこと、イスラエルプロパガンダを完成させる/させないのも、問題を解決する/しないのも、村上春樹ではなく私たち自身の問題であること、などにです。村上春樹のスピーチの内容については小田亮さんが解説してくれています
 
 
したがって僕は基本的には村上春樹に文句をつけたいわけではないのですが、やっぱりこういう安易な「正論」批判みたいなものに接すると、ちょっと憂鬱になります。「ネット空間にはびこる正論原理主義」よりも僕は「ネット空間に限らずはびこる正論嫌いという名の無関心或いは自己正当化」の方が怖いですね。或いは「正論原理主義」と言うレッテルを貼ることで、他人の言い分を封じようとする人がはびこらないか心配です(まあ、いつの世でもこういう人ははびこるものと相場が決まっていますけど。偽悪的発言の持つ偽リアリティについてはホームレス問題についての語りの中でも見られたような気がします)。
 
例えば、以下の記事や、それに賛同したり、その前提に同意したりしているブクマを見るにつけ。僕としては『正論原理主義批判』という『正論』の尻馬に乗ることで、自分の優越感を満たしたい人の多さに辟易すると言ったところでしょうか。
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090311
 
 
 
よく「正しさは一つではない」みたいなことが言われるのですが、僕はこれにはまったく同意できません。「正しさ」という言葉を用いた時点で(というよりそういう概念で物事を捉えた時点で)、物事は「正しいこと」と「間違ったこと」に分けられてしまうわけで、「正しい」ことと違うことは「間違った」ことである以外にありえません(これは「正しい」という言葉(概念)の性質の問題でしょう)。「正しさ」は一つです。ただし、私たちに「正しさ」が見極められるかと言ったら、これはなかなか難しい問題があると思います。また、われわれが正しくないことを正しいと思い込んでしまうこともよくあることだと思います。また、原理主義というのは、なんらかの教義や原則に忠実に行為することを言うのであって、その教義や原則が正しいかどうかとは関係がない話だと思います(本人たちは正しいと思い込んでいたとしてもそれは思い込みであって、その教義が正しいわけではありません。また、それが思い込みかどうかを誰かが見極められるのかどうかということも、また別の問題でしょう)。ちなみに「正しさ」とは各種前提ごとに決まるものだと思います。つまり、二人以上の人の間で「正しさ」が決まる(同意されるかはともかく)のは、前提が共有されたときだけということです。

*1:ちなみに僕は「正論」という言葉の意味がわかりません。人によって使い方がまちまちであるように思えるからです。僕の観察の範囲では「説得力がある主張」というような意味で使っている人も多いようです。id:NOV1975さんのこのダイアリには、この「正論」という言葉のわからなさがにじみ出ています。ここでは「正論」を「持論」という意味に解しているように思えます。恐らく村上春樹もそうだし、このような解釈をしている人は多いように思えます。しかし、村上春樹をはじめ多くの人は「正しさ(正義)」アレルギーを抱えているので(或いは、「正しさ」批判をすることが正しいと感じていたり、そうしないと世の中に受け容れられないという圧力を無意識的に感じ取っていたりするので)内容的には「持論を言い立てること」批判なのにそれを「正論批判」であるかのように偽装し、かつ、それを自分でも気がついていないような気がします。

*2:言ったら逆にその「正しさ」が検討されてしまう。当然の前提のように「語る」(つまり「語らない」)ことで、それは読者にとってもドグマと化す。

『テロ死/戦争死』の委託配本拒否について。

テロ死/戦争死

テロ死/戦争死

 
 
『六日間』(ハリーム・バラカート著 奴田原睦明訳 初版1980年)という本を読んだ。
六日間 (1980年) (パレスチナ選書)

六日間 (1980年) (パレスチナ選書)

版元である第三書館ってどんな出版社なのだろうと思って検索していたら、気になる記事が。
 
第三書館VSトーハン  ウラゲツ☆ブログ
 
第三書館から出ている『テロ死/戦争死』(第三書館編集部:編 初版2005年11月)が、新刊当時、取次各社から委託配本を拒否されたとのこと。知らなかった。この記事で興味深かったのは、以下の記述。

私はこの写真集の中味を見たわけではないので、本についての感想は書きませんが、取次各社が「拒否」した経過は想像に難くありません。
(中略)
取次に新刊の見本出しをしたことのある営業マンなら、恐らく誰しも、心情的には似たような「攻防」を経験したことがあるはずです。私も当然あります。

「想像に難くありません」「恐らく誰しも、心情的には似たような「攻防」を経験したことがあるはず」。う〜〜ん、想像が膨らみます。
 
また、以下の記述には、暗澹たる気持ちにさせられる。

ちなみに北川さんの記事にはこんな一節もありました。「新聞広告代理店からも思いがけない反応があった。一面三八ツに出稿しようとしたら、取次が委託しない本の広告は本ではなくて一般物販扱いだから何倍か高い別料金だというのだ」。これにはさらにびっくり。正直そんなことがあろうとは知りませんでした。腹立たしいことです。

 
以下は、上記ページの下の方に、リンクされていた記事。
 
最終的に本を「裁く」権利は、読者にある。  ある編集者の気になるノート 
 

僕も「ウラゲツ☆ブログ」さん同様、本の中身を見ていないので、滅多なことはいえません。
ただ、少なくとも、「残酷すぎて書店がいやがる」「子供が見たら教育上よろしくない」といった取次の人の意見(どこまでホンネか知らないけど)には違和感を感じてしまいます。

 
もちろん、どこまでホンネか分からないし、「残酷すぎる」という言葉に込められた意図もよく分からない。で、僕はこの『テロ死/戦争死』という本を持っていて、確かにすごい本で、「正視に耐えない」と言いたくなるような写真が多く掲載されています。 
ただし、書店の医学書の棚に行けば、結構、僕なんかにすれば「正視に耐えない」ような写真が載っている本がたくさんあります。「残酷」ということは、ここで僕が言っている「正視に耐えない」ということと必ずしもイコールではないのだとは思うけれど*1、そういう中に(医学書の中に)この『テロ死/戦争死』を並べてみれば、それほどでもないと感じられるのではないでしょうか。
 
で、この本が出版された目的の一つは、「目を背けてはいけない」というような倫理的な目的だったと記憶していますが(帯かどこかにそのようなことが書いてあった)、これは医学が(つまり、医学書が出版される目的が)人の命や健康を守る目的にあるのと、そうは変わらないと思います。どちらも、倫理的な要請のもとにある。
 
しかし、医学書が「残酷だ」とか「教育上よろしくない」として配本拒否されることは、まずないでしょう。医学書は人々にとって「必要不可欠」だけど、『テロ死/戦争死』のような本は、そうではないということでしょうか?しかしなぜ、そう言えるのか。
 
この記事のコメント欄の言葉。

これって、トーニッパンさえおさえれば、カンタンに言論統制できるってことを改めて私たちに知らせてくれたわけですね。

なんてこったい。
 
 
以下は、北川明さんが書かれた記事。
『テロ死/戦争死』は死なず

*1:そういう事態が人為的、かつ意図的な暴力によって引き起こされたことまで含めて「残酷」と言っているのであれば、医学的な目的で解体された人体の「グロテスクな」感じと単純に同一視するわけにはいかない。

体験の絶対化 「他人には分からない」

震災の痛み ――兎美味し 蚊の山

usauraraさんの記事がとても興味深かった。

「あの地震経験したやろ、どんな思い?それと同じや。あんなん経験したもんでないとわからん。
せやからあの人ら(ユダヤ)の気持ちは僕やアンタにはわからんのや。」

usauraraさんが再現している「イスラエルの攻撃の正当性について講釈を始めるおじさん」の言葉。usauraraさんの言うとおり、「同じ地震を経験してもそれをどう自分の中に取り込むかはそれぞれ」だ。
 
「体験」や「共感」をめぐる人間的な政治的駆け引き(おじさんに政治的駆け引きをしているという明確な意識があるかどうかはまた別。政治的駆け引きなんてほとんど無意識的になされるものだから)。
 
usauraraさんとおじさんは、「震災の体験」において共感可能な部分を持つだろう(という言い方も大雑把すぎるけれど)。しかし、一方でその共感可能な体験から、共感不可能な結論をそれぞれに持つに至った。で、おじさんの言う(イスラエルユダヤ人の?)「気持ち」なるものは、一体どういう段階の「気持ち」のことを言っているのだろう。多くのイスラエルユダヤ人同士も(パレスチナ人の自爆攻撃やハマスの砲撃を受けたことで?)共感可能な部分を持つだろう。しかし、同時に共感不可能な結論を持つことだってありうるし、現に持っている。この結論はおじさんの言う「気持ち」のうちに入らないのだろうか?これだって明らかに「体験者の気持ち」じゃないか。
 
「体験者」の「気持ち」という権力装置。
 
もちろん「体験者の気持ちったって人それぞれじゃん(だから考えても仕方がない)」というようなことは言うつもりはない。だが「体験者」の「気持ち」なるものは、常に政治的に利用される。しかし、体験者の間に気持ちの齟齬があることは、同じ震災体験者であるusauraraさんがおじさんの言葉への不快感を表明したことからも、明らかだ。
 
ある種の「暴力」を「体験談」によって正当化しようとする政治的駆け引きは、例のホームレス問題でも見られたものだ。
http://d.hatena.ne.jp/itumadetabeteru/20080918
 
 
 

さらに少し思ったことを箇条書きで。

  1. おじさんは「(イスラエルユダヤ人の)気持ちは分からない」と言いつつ、実は(イスラエルユダヤ人に、他人に分からない「恐るべき体験」をしたものとして)共感を示しているのではないか。
  2. おじさんはユダヤ人の気持ちが分からないことには気が付いているのに、なぜか(同じ震災体験者としての)usauraraさんとの間の気持ちの通じ合わなさには気が付いていない。「気持ち」を根拠に政治的意見を述べる人が、他者の「気持ち」に敏感かというと決してそうではないことの実例。そういう人は誰かの気持ちに敏感であると同時に、別の誰かの気持ちにえらく鈍感であったりする。或いは、ある人のある種の気持ちにはえらく敏感なのに、同じ人の別の気持ちにはえらく鈍感だったりする(こういうところからも、僕は「情緒的に語る人⇔論理的に語る人」みたいな対比において、「情緒的に語る人」が「人の気持ちを大切にする人」みたいに認識されることが、気に入らない)。

イコノロジーとイコノグラフィー   「空気を読め」

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

パノフスキーの『イコノロジー研究』(ちくま学芸文庫)を読み始めたので、ちょとメモ。
 
本書の序論では、本論の中で美術作品の「主題・意味」を論じるにあたって採用されている区分けが紹介されている。それは次のようなものである。

1.「第一段階的・自然的意味」・・・
これはさらに、「事実的意味」と「表現的意味」に区分けされる。
街である知人が帽子をとって私に挨拶したのを目撃する。そのとき、私の視覚には単なる光学的な変化が捉えられるだけだが、私はそこから「あの人だ」とか「帽子をとった」という非常に素朴なレベルの「意味」を読み取る。これを「事実的意味」と呼ぶ。絵画においては、素朴なオブジェクトのレベルで何が描かれているかの段階。
また、その知人の行為の様子から、その知人がどのような感情を抱いているのかを、例えば機嫌がよいのか悪いのかを私は感じ取る。このように感じ取られた意味を「表現的意味」と呼ぶ。絵画においては、描かれた人物の表情が悲しげだとか、建物が荘厳だとか、そういう段階。
「第一段階的・自然的意味」はイコノグラフィー以前の段階、ティーの段階とされる。

2.「第二段階的・伝習的意味」・・・
視覚に捉えられた光学的変化から「(素朴な)事物」を認識したり、そこになんらかの「感覚」を覚えたりするだけでなく、私はそこから「知人が挨拶をしている」という意味をも読み取るだろう。これを「第二段階的・伝習的意味」と呼ぶ。このような意味を読み取るためには、それが挨拶であるという共通認識がある西洋世界の習慣をあらかじめ知っている必要がある。絵画においては、一定の配置と一定の姿勢で晩餐の食卓についている一群の人々が「最後の晩餐」を表現していることを読み取る段階。これがイコノグラフィーの段階。

3.「内的意味・内容」・・・
私は、視覚に捉えられた光学的変化から、上記の二つの段階よりも、さらに高度な意味も読み取る。例えば、知人が挨拶することやその仕方は、その知人の親しみやすい性格や礼儀正しさを物語っているかもしれない。また、例え「第二段階的・伝習的意味」に属する「(西洋における)挨拶」という意味合いが明らかだとしても、それが現代の日本においてなされたなら(現代の西洋でも?)、彼の行為は一風変わった行為として受け止められるだろう。また例えば、彼がその行為をどういう目的で行ったか(例えば、「おどけて」とか「大真面目に」とか)という点も彼のパーソナリティを判断する材料となるだろうし、その行為はなんらかの形で彼の現在の気分も暗示する。このような読み取りは、単に彼の「帽子をとって挨拶する」という行為だけからなされるのではなく、彼の細部の仕草ひとつひとつから、或いは、彼が身をおいているあらゆる文脈――時代・国民性・階級・知的伝統――との関連において、統合的になされる。このような統合的に読み取られたものを「内的意味・内容」と呼ぶ。絵画に関して言えば、この読み取りは画家の傾向・趣味・信条や立場、属した時代や国の流行などあらゆる要素を統合して行われる。これがイコノロジーの段階。
 
そして、正しいイコノグラフィー上の分析をするにはモティーフの正しい理解が必要不可欠であり、正しいイコノロジー上の解釈をするには、正しいイコノグラフィー上の分析が不可欠である、とパノフスキーは言う。
 
 
ある絵が描かれた当時の社会状況や暗黙の共通前提が、今ではすっかり消えうせてしまったぐらいに、十分古い時代に描かれた絵画に関して言えば、そこに描かれているモティーフや、そのイコノグラフィー上の意味は、それほど簡単には、判明しない場合もある。パノフスキーは、絵画に描かれたモティーフについて知るには「様式(スタイル)」の歴史を洞察せねばならず、イコノグラフィー上の分析をするには「「テーマ・概念」が変化する歴史的状況下で「対象・出来事」によって表現される方式、つまり「類型(タイプ)」の歴史を洞察」(P.51)せねばならない、と言う。
 
しかし、ある表現されたものが何をあらわしているかを知るには、その表現がどのような様式や類型の文脈におかれているかを知らなくてはいけないというのは、何も昔の絵を見る場合に限らない。「萌え」文化における表現について読み解くのだって、そこにある独自の様式や類型(の歴史)について知る必要があるだろう。
 
 
 
 
唐突だが、僕は今まで「空気を読む」というのは、単に「文脈的に意味を読む」くらいのことだろうと考えていたのだが、パノフスキーの本を読んでいて、もうちょっと違う視点から考えて見る必要もありそうだと思った(パノフスキーの論とはあまり関係がないのだが)。例えば、「街で出会った知人が帽子をとってこちらに挨拶をする」という行為の意味を読み取ることについて、「空気を読め」というような要求、もしくは責めがなされることはない。それが「挨拶」であることは、ある人々にとってはあまりに当たり前のことだし、またそれが分からないからには、それだけの理由があるのであって、それを責めることに生産性はないと判断されるからだ。そこではあらかじめ「われわれ」と「彼ら」が区別され、意味を読み取れないのはその人が「彼ら」に属するから、という判断がなされる。それに対して「空気を読め」というのは、「われわれ」の内部に意味が読めない者がいることがあらかじめ想定されていることについて「意味を読め」と言っているわけだ。
 
「空気を読め」という責めがどういう生産性をもたらすのかはよく分からない。実際に空気を読むように躾けることによって「われわれ」の「良好な」雰囲気を保つためだろうか。あるいは、「空気を読めない」人物をさらすことによって優越感に浸るためだろうか。どちらであれ問題はあるのだが、しかし、後者である場合、これは「空気を読めと言うこと」が目的化しているわけで、つまり、その目的に応じて「われわれ」の内部に、空気を読めない人物が生まれる事態を現出させるために、なんらかの表現の様式や類型が発明されたり、過剰に使用されたりするということすら起こりかねない。例えば、業界用語は、常に過剰に使用、或いは披露されるきらいがあるように僕には思える。また、もともとどこにもなかった「お国の伝統」なるものが創造される過程でも、そういう欲望なり力学が作用しているのかもしれない。
 
「空気を読めない」者をさらすような風潮だけでも十分おぞましいが、そういう状況がわざわざ発明されるような風潮はさらに恐ろしい。しかし、さらにその奥には、そのような発明を要請する歪んだ社会構造があるようにも思える。内藤朝雄さんの『いじめの社会理論』を思い出した。せまい檻の中に閉じ込められて、理不尽な共同生活を押し付けられる子供たちの話だ。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

正しく論破することと、理解を得ようとすること。

論破すること自体には何の意味もない
 
きちんと論破したら納得する奴なんて、はてなでは見たことねーよ・・・
 
 
「論破するだけでなく納得させるべき」という主張には、それなりの正しさがあります。ただし、「納得させる」という相手次第であることができなければ「意味がない」とまでは言えないでしょう。
 
政治家が取るべき態度には、二つあって、大まかに言えばそれは「正しい認識に基づいて議論すること」と「美しい態度をとること(或いは、醜い態度をとらないこと)」とに分かれると思います。
 
この場合の「正しい認識に基づいて議論すること」とは、「議論の相手が持ち出した帰無仮説を棄却することで浮かび上がってくる対立仮説の正当性を」論証すること(相手に分かってもらうこと、ではなく)であり、「美しい態度をとること」とは、相手に分かってもらおうとする(分かってもらうこと、ではなく)ことです。
 
そうい観点から言えば、橋本知事が今回「相手にわかってもらおう」としなかったとは必ずしも言えないと思いますが、ただし「正しい認識に基づいた議論」をしなかったのは確かだと思います。「議論の相手が持ち出した帰無仮説を棄却することで浮かび上がってくる対立仮説の正当性を」論証するという手続きを踏まない場面もありましたし、あるいは、高校生の議論の未熟さにつけこみそれを屁理屈でかわすだけで本質的な議論をしないという場面もありました。その上で自分の信念だけを語るという、説教くさい上に頭の悪い上司みたいなことをしていた。
 
マスコミが取り上げたのは、単に知事と高校生のガチンコという構図が面白かっただけじゃないでしょうか。むしろ今回の件は今後「高校生にも本気で相手するというのは立派だ」という評価をされるような気がします。この手の安っぽい「お話」ってマスコミでよく見かけるもの。

「庶民的屁理屈」政治家の系譜 

 
大阪・橋下知事、私学助成金削減めぐり高校生と意見交換会 「日本は自己責任が原則」

そして、橋下知事は高校生たちに「皆さんが完全に保護されるのは義務教育まで。高校になったらもう、そこから壁が始まってくる。大学になったらもう定員。社会人になっても定員。先生だって、定員をくぐり抜けてきているんですよ。それが世の中の仕組み」と社会の厳しさについて語った。
この発言に、高校生から「世の中の仕組みがおかしいんじゃないですか?」と意見が出ると、橋下知事は「僕はおかしいとは思わない。やっぱり16(歳)からは壁にぶつかって、ぶつかって」と反論、「そこで倒れた子には?」との質問には、「最後のところを救うのが今の世の中。生活保護制度がちゃんとある」、「今の世の中は、自己責任がまず原則ですよ。誰も救ってくれない」と語った。
さらに、高校生から「それはおかしいです!」と意見が出ると、橋下知事は「それはじゃあ、国を変えるか、この自己責任を求められる日本から出るしかない」と反論した。

 
 
どのような人間も政治的に振舞わないことはできない。どのような人間も観客席にいることはできない。これは観客席にいてはいけないということではなく、原理的に観客席にいることは不可能だ、という意味だ。あらゆる人間が当事者なのだ。
  
しかし、中でも政治家は、よりいっそう積極的に「当事者となる」義務を負っている。
 
政治家の言葉は「それが世の中だ」ではなく「こういう世の中であるべき」であるべきだし、「あなたが変えるしかない」ではなく「そんな制度にはすべきでない」であるべきだ。
 
「それが世の中だ」「あなたが変えるしかない」とは、要するに、「私には関係がないことだし、私はどっちでもいいと思っている」ということだ。議論相手の高校生の望むような世の中に「すべきでない」とすら思っていない、ということだ。 
 
 
 
 
うーーーん…、これは本格的にデジャヴュだなあ。
 
橋本知事と小泉元首相を比べる人は結構見かけるけど、自分をあっけなく傍観者の立場に置けてしまうところとか、こういう素朴な庶民的屁理屈がするすると出てくるところなんか本当にそっくりだ。「園児の涙を利用するな」とか「子供扱いはしない」みたいな自己陶酔的な「リアリスト」的ヒロイズムにはまっているところも。



↓この記事、とても参考になりました。木村太郎さんってこの程度か…。
橋下知事「日本は自己責任が原則」…私学助成の不安を訴える女子高生を泣かす  dj19の日記

2008年10月29日 『マニ教とゾロアスター教』


さらっと読んで、知った気になれる山川出版の世界史リブレットがお気に入り。
マニ教ゾロアスター教』を読んだ。宗教は割りと好きなテーマ。

マニ教とゾロアスター教 (世界史リブレット)

マニ教とゾロアスター教 (世界史リブレット)

マニ教の特徴は折衷主義的なところだそうだ。さまざまな宗教や神話のごった煮状態。
二元論だが、それはゾロアスター教の二元論とは違う。マニ教の場合は、世界は光と闇という二つの原理から成り立っていて、光は霊的なもの、闇は物質的なもの。だから当然、人の肉体という物質的なものも闇であって、結果、現世否定に至る。このあたり仏教の影響が感じられると著者は書いている。
 
ゾロアスター教
それに対してゾロアスター教の二元論は、この世のありとあらゆるものは善と悪に属し、現世はこの二つの原理の相争う場であるそうな。善とは生命であり光であり、創造主アフラ・マズダーである。悪とは死であり、闇である。だから死は忌み嫌われる。死体にふれることもタブーだった。ところで、この善と悪の争いが生まれたところの説明が面白い。

ゾロアスターの説くところでは、もともと二つの対立する原理が存在したのだという。二つは完全に対立するので、その間に優劣や強弱の差はない。それはあたかも双子のようなものだと彼は述べた。両者はまったく無関係に存在していたが、たまたま遭遇してたがいに相手の存在に気づいたとき、対立が生じた。一方の霊は善であったので生命を選んだ。他方は悪で非生命(つまり死)を選んだ。
(P.14)

両者はまったく無関係に存在していたが、たまたま遭遇して対立が生じたっていうのが、どこかのんきでいい。争う運命にあった、とかじゃないわけだ。たまたま遭遇しなければ対立も存在しなかったのかな。二つは完全に対立する「ので」優劣がない、という論理の立て方も面白い。飛躍があるようにも見えるが、優劣は共通の地盤に立って始めて言えるので「完全に対立」している場合は、優劣は言えない、というようなことを前提にしている、テツガク的な主張にも聞こえる(でもそもそも「対立」とか「争い」がありえるためには共通の地盤が必要なんじゃないの?と思ったりもするけど、まあ、そこら辺は著者の書き方かもしれない)。
ただ、この創造主アフラ・マズダーがずるいというか抜け目がないというか。

叡智の主アフラ・マズダーは先見の明によって、対立する二霊は戦わざるをえないことを知った。その場合、戦う場と武器と主体が必要になるし、戦ったあとには勝敗が決まる。したがって、戦いを始めるにあたって、究極的に自らの勝利となるときを期限とすることができれば、自分が勝利して終わることは間違いがない。そこでアフラ・マズダーは、自分が勝利するときを終着のときとするという条件で戦おうと提案した。死と破壊の霊は、結果をみとおすことがないので、ただ戦うチャンスにとびつき、この提案は同意された。
(P.14〜15)

明らかにアフラ・マズダーはずるい。当時のイランでは、公平であることよりも賢いことの方が価値があったのかな?
しかし、両者が対立した(戦い始めた)理由がよく分からない。それについてまったく説明がないならともかく「(両者は)戦わざるをえないことを知った」(仕方ないから?)とか「(死と破壊の霊は)戦うチャンスにとびつき」(戦いたいから?)などと、ほのめかされている。で、死と破壊の霊が好戦的なのは分かった。でも、アフラ・マズダーの方はどうなんだろう?やはり好戦的なんだろうか?それとも「仕方なく」戦うのだろうか?少なくとも現代の社会では、「正義」は必ず「仕方なく」戦う。そうでなきゃ「正義」になれない。
かくして、アフラ・マズダーによって「争いの場」として世界が創造され、そこに悪の霊が侵入して破壊をもたらした。植物は枯れ、人間や動物は死ぬ。その反撃として、善の勢力は死んだものから種をとりだして、さらに多くの生命をもたらした。人間は、善い心、善い言葉、善い行いの三徳を守り、善の側に立って戦いに参加する。最後には救世主があらわれ、悪は滅ぼされ、その後は完全な世界が永遠に続く。
分かりやすい。
 
預言者ゾロアスターが活躍したのは紀元前1200年ごろと言われている。ゾロアスター教は、イラン人の移住とともに次第にイラン全土に広まり、アケメネス朝ペルシアがオリエント世界を統一した前六世紀にはイラン人の宗教として確立していたそうだ。拝火教という別名にふさわしい「火の寺院」が建立されるようになったのもこのころのことで、メソポタミアイラク)でさかんだった偶像崇拝や壮麗な寺院建立の慣習を取り入れた結果だ(しかしヘレニズム的な偶像崇拝の慣習は6世紀ごろには再び見られなくなった)。
アケメネス朝ペルシアがマケドニアアレクサンドロスに前330年に滅ぼされた結果、イランにヘレニズム(ギリシア)文化がもたらされたが、征服した側のギリシア人はみずからの信仰を強制することはなかった。さらにその後はイラン東北部出身の遊牧民族パルティア人がイランを再統合する。これがアルサケス朝ペルシア。この帝国は地方分権制で、やはり各地の独自性には介入しないというポリシーであった。また、ゾロアスター教徒が自らの世界観を述べる際に、ギリシアの神々の形容詞を流用したり、ヘレニズム哲学の思考法や用語を使うこともあった。このころの人々には、固有の宗教や伝統、文化に執着するという習慣はなかったらしい。しかしこのような状況でイラン人の間でゾロアスター教などの自分たちの文化を守ろうとするラニズムの傾向が見られるようになったとも書かれているが、ここら辺の事情についてはこの本ではよく分からない。
そのようななか、3世紀ごろイラン西南部に出てきたサーサーン朝は、自らの正統性を主張するために「アケメネス朝はイランの伝統からはずれた正当でない王朝である」と主張した。その結果、(正統性の根幹である)ゾロアスター教アレクサンドロスの征服の際に滅び、サーサーン朝によって復興したのだと信じられるようになった。
うーーん。どっかで聞いたような話だな。

 
マニ教
マニ教の開祖マーニーの父親はアルサケス王族出身で、母親も王家につながる家の出とされる(つまりゾロアスター教の伝統を持つ人たち)。マーニーが生まれたのは216年で、4歳のとき父パテーグが酒、肉、女を断てという声を聴き、家族ともどもグノーシス主義のグループにはいった。バビロニア(現在のイラク南部)で生まれ育ったので、ユダヤ教的教養にも触れることができた。12歳のときにマーニーのもとに精霊が訪れ、新しい信仰への自覚を持つにいたる(若い…)。24歳のときに再び精霊が訪れて彼に伝道を命じたので、まず両親を改宗させ(!)、インドへ向かった。このとき仏教やヒンドゥー教の知識を得たのだろう、と著者は書いている。このインド遠征で仏教徒であったバルーチスタンの王を改宗させたそうな。
バビロニアに戻った彼は、サーサーン朝の王宮にまねかれ自らの思想を書いた書物を王に差し出した。「予言者が自ら教義書を書いたのは、史上彼がはじめてであろう」(P.27〜28)(それだけでなく、マーニーは教団の形成も自ら行った)。マーニーは絵師であり医者でもあった。サーサーン朝の二代目シャープフル一世はマーニーを寵愛したが、これは王が彼の医師としての能力を買い、その思想を危険視しなかったからで、新宗教の教祖としての影響力はさほどでもなく、王の身内や貴族が何人か帰依した程度だった。
王の死後、マニ教やそのほかの宗教の拡大を憂慮していたゾロアスター教の祭祀長キルデールは、王朝の後継者争いを期に発言力を増大させ、異端(キリスト教ユダヤ教、仏教、マニ教)の弾圧に乗り出した。もともとはあらゆる人々に開放された普遍宗教であったゾロアスター教は、このころ改宗を受け入れず、伝道活動もしないイランの民族宗教になっていたので、改宗をせまるキリスト教マニ教は脅威だったのだ。
 
マーニーの宇宙観というのが複雑でおもしろい。最初にズルワーン(単に時をあらわす普通名詞)という「偉大な父」がいて、「闇の王子」の攻撃を予測したズルワーンが「生命の母」を呼び出し、この「生命の母」が最初の人である「原人オフルミズドアフラ・マズダー)」を呼び出した(マニ教では性的関係に対するタブーから「産む」というとき「呼び出す」という言葉を使う)。オフルミズドは戦いに敗れ闇に呑み込まれる。これが第一の創造の物語。オフルミズドが助けを求めたのに応じるためにズルワーンは第二の創造を始める。まず「光の友」が呼び出され、ついで「偉大な建設者」が、救い出したオフルミズドを住まわせるための「新しい天国」を作るために呼び出される。その後「生ける霊(太陽神たるミフルヤズド)」が呼び出され、「生ける霊」は右手を伸ばし、闇に横たわるオフルミズドを引き上げ、新しい天国に連れて行く。
オフルミズドはこうして救われるが、彼とともに囚われの身となった光の元素は小さく砕け散って、多数の闇の眷属に呑み込まれている。これを救うために「生ける霊」と五人の息子たちは大戦争を起こす。このとき倒された闇の悪魔たちの死体から現世界がつくられる。その他の闇のアルコーン(位の高い悪魔)たちは鎖で空につなぎとめられた。救い出された光の元素のうちまだ汚されていないものから太陽と月がつくられ、少し汚されたものから星がつくられた。しかし約3分の1の光の元素は救い出されずに残った。
この残された光の要素を救い出すために宇宙には動きが与えられ、第三の創造がおこなわれた。ズルワーンはまず「第三の使者」を呼び出した(第三の創造では、このほかに「光の乙女」、「輝くエス」、「偉大な心」、「公正な正義」が呼び出された)。「第三の使者」は輝くばかりに美しく、その使命は男女の闇の「アルコーン」を誘惑して(「光の乙女」や、輝く肢体の若者の姿になって)彼らが呑み込んでいる光の元素を吐き出させることにある。男の「アルコーン」が欲情して放出した精液の一部が水に落ち、巨大な海の怪物となるが、これは「生ける霊」の五人の息子の一人「光のアダマス」に倒される。残りの部分は大地に落ちて植物になった。女の「アルコーン」は地獄で胎み、流産して大地に五種の動物(二本足のもの、四本足のもの、飛ぶもの、泳ぐもの、這うもの)をつくる。

闇の側では、せっかく虜にした光の元素を取り戻されないように「物質」が「肉欲」の姿をとって、すべての男の悪魔を呑み込んで一つの大悪魔をつくり、同様に女の悪魔たちも一つの大女魔となった。その両者によって、あこがれの的である「第三の使者」に似せてアダムイヴがつくられた。そのかたちをつくった物質には光の元素が呑み込まれている。したがってアダムは闇の創造物でありながら、大量の光の要素をもっていることになる。・・・・・・このアダムに・・・・・・「第三の使者」の化身である「イエス」が送られ、アダムにグノーシス(知識)を与えて覚醒させる。覚醒したアダムは・・・・・・物質の連鎖を断ち切ろうと禁欲を誓う。しかしアダムより少ないにしろ、やはり光の本質をもつイヴは、グノーシスを与えられなかったので、その理由を理解できず、「アルコーン」と交わってカインとアベルを産む。嫉妬にかられたアダムは、自らを抑えきれずイヴと交わり、セトが生まれた。かくして、人間の生命の営みが始まったという。
(P.35〜36)

というわけで、物質的な(闇の支配下にある)この世界では、グノーシスをえた人びとによる戦いが続いている。いずれ最終戦争がおき、イエスが判事としてあらわれる。天地は崩れ落ち、物質的なものは消滅する。マニ教徒の使命とはすなわち、グノーシスを得て現世の救済に貢献することである。
 
マニ教の本拠地はバビロンだったがマニ教がめざましい発展をとげたのはシリアやエジプトなどの地中海沿岸地方だった。ローマ帝国では、その版図の大部分にマニ教が広まり、キリスト教を国教としなかったらマニ教が国教となっただろうといわれるほどだったそうだ。キリスト教化されたヨーロッパでもマニ教的二元論は連綿と生き残り続ける。アウグスティヌスカルタゴで初期のマニ教と出会い、無頼の生活から抜け出す。当時のカルタゴアレクサンドリアでは宗教間の公開討論が一種の娯楽になっていて、キリスト教マニ教の対決はとくに人気があった。アウグスティヌスもこれにひきつけられたが、キリスト教の司教アンブロシウスに出会い、論争よりも真の救いが重要だと気づき、改宗する。かえってマニ教に敵愾心を燃やすようになったアウグスティヌスマニ教の欠陥を述べ立てたが、これが西欧におけるマニ教観に多大な影響を与えた。
 
750年にウマイヤ朝を倒したアッバース朝イスラームのカリフ位を獲得し、その首都がバビロンに移される。三代目カリフのときにマニ教徒の弾圧が起こり、結局、十世紀ごろにはマニ教は中東世界から消滅する。七世紀後半から8世紀前半にかけて唐に伝わったマニ教は、安禄山の乱(758年)の鎮圧に貢献したウイグルの後ろ盾もあり、中国全土に広まった。

マニ教の教義はすでに各地で仏教や、ゾロアスター教キリスト教の教義との混淆を深めていたが、この時期になると、さらに中国独自の宗教である道教の教義とも同一化されるようになった。マーニーは道教の始祖老子の生まれ変わりとみなされたりした
(P.71)

しかし、ウイグル王が死ぬとウイグルに対する反感がマニ教寺院に向けられ、各地で破壊活動が起きた。福建の泉州に逃れたマニ教徒はこの地で秘密結社のような組織になったという。

マニ教経典は、一見仏教の典籍の一つのようにされ、一部のマニ教徒は道教の一派のように振舞っていたこともある。キリスト教の一派とみなされたことも多く、マルコ・ポーロ泉州であったと述べている「キリスト教徒」はじつはマニ教徒だったといわれる。
(P.72)

結局、中国のマニ教徒は十五世紀くらいには姿を消し、これによってマニ教は事実上消滅した。