利己的な痕跡の消去、「全員皆勤達成」という野蛮に関して。

 
休まない、休ませない 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
 
 こちらは、上の記事のブクマページ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090421/p1

 id:Brittyさんは記事の冒頭で「ああ、嫌なものを読んだ」と書いているが、僕も件の記事を読んだとき、同様に感じました。
 
 ブックマークコメントでid:K-Onoさんは以下のように書いています。

どっちも千葉県立高校205校のうち下位30に入る高校(若潮ブービーだ)だということを考えると「まず学校に来させる」レベルの話だと思いますが、確信はないのでちょっと友達の千葉県公立中学教師に聞いてみよう。

 しかし、「まず学校に来させる」レベルとは何を言っているのかよく分かりません。「まず学校に来る」ことが最低条件であるかのような風潮にこそ僕は嫌なものを覚えるし、そういう発想こそ「休めない社会」の発想ではないでしょうか。このような言葉は「会社を休まないことくらい当たり前のこと」という発想に容易に転換しえます。個人的に、自らに「とりあえず学校に(会社に)行くことは徹底しよう」と言い聞かせるような人がいてもいい。ただしそれは社会にそういう風潮がないことが条件です。最低でも有給休暇を完全に消化することが、むしろ義務になるような社会。そういう中で、少数の個人的にマゾヒスティックな目標を立てる人がいたって、何も問題はありません。しかし、教師がそれをクラス全体の目標と定めるのは、個別の事情の無視もはなはだしい。「学校に来ることはみんな平等にできる。」ということを一言一句そのままこの教師が保護者に言っていたのかどうかは分からないけれど、これほど現実を無視した話もないでしょう。そもそも人間は平等な条件下に置かれていません。不平等な条件の下に置かれている人々に同一の義務を課すことを不公平と呼びます。
 
 
 id:yukky2001さんは、

軍隊的社会を嘆くより、うつへの理解を社会に広めるのが現実的かなと思う。誰しも部下を死なせるつもりまではないわけで。

と書いているが、「うつ」への理解だけが問題なのではないでしょう。「うつ」はあまたある個人的な事情の一つでしかないのですから。むしろ大切なのは我々は他人がどのような事情を抱えているのか知りようがないということでしょう。さらに言えば、事情を抱えている人がそれを(会社の上司などという赤の他人に)どこまで打ち明けられるか、打ち明けることが強制されねばならないのか、という問題もあります。事情が打ち明けられず、知られない以上、「軍隊的社会」の規律が容赦なく課せられる社会では、ほとんど解決になっていません。もちろん「軍隊的社会を嘆く」だけではなく、そういう社会がどういう野蛮さを備えたものか、そういう理解を社会に広めることが大事なのだと思います。「部下を死なせるつもり」がない、そういう「邪心のなさ」や、件の教師のような「善意」が、どうしようもない結果を招くということこそが、「軍隊的社会」の本質なのだから。
 
 
 id:polynityさんは

企業での勤務と学校での出席とをアナロジーで結んでも違和感がない、という学校の現状を改める必要がある。皆勤の生徒にはシャバートを奨励してはどうか。

と書かれていましたが、まったく同意です。学校がなぜ「社会の慣行に慣れるための」訓練をする場所でなくてはならないのかが分かりません(id:NOV1975さんも書いているように、そもそも訓練になっているのかも大いに疑問ですが)。むしろ一般社会では無視されがちな要素をじっくり追求する場であってもいいはずです。しかし、こういうよく分からない理屈をつけて無茶な方針を強行する教師は、何もこの教師ばかりではないんですよね。大阪府橋下知事も、同様のことを述べてましたが、こういう発想がそれなりに一般的であるという事態に、非常に嫌な感じを覚えます。むしろそういう社会の現状に疑問を抱けるような教育があってしかるべきだと思う。Brittyさんの記事を読ませるとかね。
 
 それから、会社を簡単に休まないことは、ある意味「社会人としての義務」「休むと周囲に迷惑がかかる」みたいに思われているのかもしれないけど、これは逆もあります。企業同士の競争というものがある以上、社員が休むことが会社の業績に悪影響を与えるかもしれないという発想は、常に、抱かれておかしくない。であるからこそ、そういう中で率先して休むことは、むしろ周囲の人が休みやすくなる心理的な環境を整える結果になるわけです。つまり休むことこそが周囲への貢献(これを敷衍して言えば、利己的に振舞うことは利他的であるということになる)。逆に、休まないことは、周囲の人が休み辛い空気を生み出すし、周囲が気軽に休める雰囲気を作ろうと努力している中で自分だけ抜け駆けて「会社への忠誠」をアピールすることで出世に結びつかせようとする利己的な態度とも言えます。こういう風に書くとあっさりと利己と利他がひっくり返ります。要するに、ひっくり返った後の物言いにも引っかかるところがあるということですけど。
 
 日本にはこういう人間の利己的な部分を利用した制度が伝統的にあります。連帯責任というのがそうです。このやり方が意図しているのは、「お前のせいで俺にまで迷惑がかかるだろ」という発想で、まさに下々の者が互いに互いを締め付けあうように持って行くことです。「お前のせいで俺にまで」という発想には、「お前自身のしたことでお前が不利益を被るなら、よいけれど…」という前提があるわけで、疑問の余地無く、とても健全な(←嫌味じゃありません)利己的発想です。逆に、自分が何かしたら周囲からどんな目で見られるか…という恐怖の中で、自分自身の行動を律するようになるわけです。もちろんこれも周囲の人間の中でまっとうな地位を占めたい(その地位を失いたくない)という利己的な発想です。ところが、これらはいずれも「お前一人のせいで皆に迷惑がかかるんだぞ」とか「皆に迷惑がかからないようにと思い頑張りました」みたいに、きれいに「利己的な発想」の痕跡が消される形で表明されるのが常です。
 
 「会社を休まないことは社会人としての義務」にしろ、この連低責任における歪んだ表明の仕方にしろ、何か変です。明らかに利己的な動機でなされたことが、まるで利他的になされたかのように、表明されている。イラクへの侵略を「イラク人をフセインの圧制から解放するため」だったとか、「太平洋戦争はアジアの解放のための戦争だった」とする強弁と、これは同型です。なぜ人間はこれほど「利他的」であることに取り付かれているのでしょうか。自己を顧みず他者に奉仕することへの憧れ。その正義。高橋哲哉さんが指摘する「犠牲」という言葉の持つ権力性。
 

国家と犠牲 (NHKブックス)

国家と犠牲 (NHKブックス)

 
例えば、「人生は甘くない」という言葉に見られる甘ったるいヒロイズムもこれに類するものでしょうか?
 
ちなみに、Brittyさんが取り上げていた朝日新聞の記事を以下に全文引用。

合言葉は「クラス全員皆勤」 一宮商で2年連続達成 
千葉2009年4月20日
 
 クラス全員、欠席させない――。千葉県立一宮商業高(一宮町)から県立勝浦若潮高(勝浦市新官)に1日付で赴任した鈴木幹男教諭(36)のモットーだ。一宮商で一昨年度担任した3年生、昨年度の1年生と2年続けてクラス全員1年間欠席ゼロを達成。勝浦若潮高でも「学校を休むな」と指導するという。

 「社会に出ると、少しぐらい体調が悪くても仕事を休めない。学校で休まないことを身につけさせたい」

 鈴木教諭は一宮商で05年4月からクラス担任となり、クラス全員が欠席しないことを目標に掲げた。病気になることはあり、実現はなかなか難しかったが、07年度の3年B組、08年度の1年D組で達成できた。

 入学式のホームルームで生徒と保護者に「学校に来ることはみんな平等にできる。今日から始めよう」と呼びかけるのが恒例となった。1年D組では、入学式からまもなくして、頭が痛いので休みたいと電話があったが、遅れてもいいからと母親を説得して生徒を登校させた。夏休みを過ぎると、「学校に来るのが当然」という一体感が生まれたという。 1年が終わって、クラス39人のうち、無欠席に加えて遅刻や早退もなかった生徒が29人いた。その一人、岡泉圭亮君(16)は「最初は無理だと思ったけれど、みんなが責任感を強くして頑張った」。

 鈴木教諭は「不可能だと思っていたことでも努力すれば可能になると生徒は知ったことが素晴らしい」。(高木和男)

「不可能だと思っていたことでも努力すれば可能になると生徒は知ったことが素晴らしい」と鈴木先生は言ったらしいですが(記事によると、ね)、でも「こんなの冗談じゃないよ」と最後まで思っていた生徒がいたとしても、そんなことそう簡単には口に出せない気がする。記録に残りやすい証言と記録に残りにくい証言。或いは、歴史は常に支配者の都合の良いように語られるということの相も変らぬ再現を見るような気がします。