ロダン展

 岩手県立美術館に、ロダン展を見に行ってきた。



http://www.ima.or.jp/00_f_set/exhb.html



 別に「白と黒の新しい世界」という展覧会のサブタイトルにことさら敬意を払って鑑賞する必要もないのだが、彫刻作品をあまり見慣れない身としては、「彫刻作品におけるブロンズ(黒)と石膏(白)の違い」とふいに言われると「なるほど、そういう視点もありうるのか」と、一応は納得せざるをえない。そんなお仕着せの視点であっても、鼻で笑って無視できるほどの鑑賞体験を持っていないうえに、「初心者は素直にならねば」と自分に言い聞かせることが出来るほどに根が誠実なのだ、僕は。



 そんなわけで、「白」と「黒」の違いや、ロダンがそれらの素材をそれぞれどのように料理したのかということを頭の片隅におきながら鑑賞し始めたのだが、そんなことよりも何よりも、順路の最初に置かれた作品、カミーユ・クローデルによるブロンズ製のロダンの胸像の見事さに打たれた。そしてその横に置かれたカミーユ・クローデルのマスク(石膏)…。マスクってことは、これはなんだ?本物のカミーユ・クローデルからかたどったの?随分と小さい頭だなあ…カミーユは小顔だったのかな…。



 ブロンズ作品は凍結した滝のようだ。ブロンズの彫刻は、作品全体で光を反射し、丸みを帯びた人物像の胸や腕や顔や衣服の上を、その反射が、ギラギラと光る流れを形成したまま凝固したように見える。こちらが見る位置を変えれば、それに合わせその凝固した光の流れも彫刻表面を移動する。



 ブロンズ作品において、光は単に彫刻作品に陰影を与えるだけではない。彫刻表面で反射の膜を作ることによってそれ自身が、彫刻の一部と化す。そして彫刻の真の表面を覆い隠す。石膏作品においては、光はただ彫刻に陰影をもたらすだけだ。そこでは面が面として、鑑賞者と彫刻との交渉を仲介しようとしつこく視界につきまとう反射から解放されて、静かに存在する。



 これらの彫刻群には、どこかいかがわしさが漂っている、と言うのが会場に足を踏み入れ、しばらく眺めた後の最初の印象だった。このいかがわしさは一体なんだろう…?最初、これはブロンズのいかがわしさではないかと思った(僕は、なんて展覧会のテーマに忠実な鑑賞者なのだろう)。ブロンズ作品を制作するとき、彫刻家は光の反射がどのような視覚効果をもたらすかを計算にいれるはずだ。それを計算にいれて、わざと表面の凹凸を荒々しく残したりするのではないか?そのことによって「無骨で」「力に満ち溢れ」「生命力にあふれた」人間像を描こうとする。そのまま、ブロンズそのものの表現力にぐだぐだに寄りかかって、恥ずかしげもなく「生命力」賛美みたいなところにまで行ってしまう…。確かにそのような感じもする。



 或いは、次のようなことか。「光」という、作品自身の外界である「現実世界」からやってくる異物と積極的に交わることによって、ブロンズは作品自身の世界にとどまることなく、こちら側(現実世界)に侵入してくる。いわば作品が過度に政治性を帯びるのだ。やたらとでかい声でわめきだす。その点、石膏の方がまだ、「反射」に惑わされずにこちらのペースで味わえる分だけつつましくていいんじゃなかろうか、その分作品との――つまり、自分の内面との――静かな対話ができる…などと思った。



 が、しばらく見ていると、ブロンズのみならずロダン自身の作意も「うるささ」「いかがわしさ」の原因なのだということに思い至った。要するに彫られた人物のポージングが奇抜、奇妙であり、そのあざとさが鼻につくのだ。


 (むろん、ブロンズのいかがわしさに関しても彫刻家の作意と離して考えられないのだが)



 鑑賞する側の内面に波風を立てることが芸術家の本分なのだと言えばそうなのだろうが、見る側は「芸術」が見たくはあっても「芸術の本分に忠実な姿勢」が見たいわけではない。「芸術の本分」をまっとうするために、奇抜さを採用されてしまうと、ときにどちらを見せられているのか分からなくなる。もちろんロダンのデッサン力の見事さには圧倒されるのだけど…。



*1



 しかし石膏のバルザック記念像習作を見るに及んで、さきほど来の石膏作品に対する好印象も修正をせまられることになった。その石膏像の顔に浮かぶ微笑…それは穏やかで優しげな笑みであると言えば言えるのだろうが、僕にはまるで、石膏に「つつましさ」なぞを感じている鑑賞者に対して、その「つつましさ」の影に隠れて、これをほだそうとしている彫刻家のほくそえみのように見えたのだ。石膏であれブロンズであれ、それが彫刻家により彫られたものならば、そこに作意は当然あるし、石膏であれば石膏の特性を利用した表現を、当然彫刻家は行うはずなのだ。ブロンズは信用できず、石膏ならば信用できるということなどあるはずがない。



 バルザックは恰幅のいい男で、なんともふてぶてしい外見をして微笑んでいる。その毒々しさが一瞬僕の中で、ロダンの作意のいやらしさと重なった。だが、その毒々しさはどこまでがバルザック本人なのか、どこまでがロダンの創作なのか。二人がかりで、か弱い鑑賞者である僕に不快な謎かけをしかけているような、そんな疑念が頭をもたげる。



 ド・ゴルベフ夫人の胸像も、石膏とブロンズが並べてある(ロダンは、彫刻を制作する際に、まず粘土で造形し、それから石膏を彫り、それをもとにブロンズ像を職人に依頼して作らせたそうだ)。ギュスターブ・ジェフロワの胸像、グスタフ・マーラーの胸像、日本人女優花子のマスクが並ぶ。



 当時、人気絶頂であったロダンに彫られた人々。彼らにとって、それは喜ばしい体験だったのだろうか?ロダンが彫ったものを生み出したのは、一体誰か?ロダンなのか?それともそのモデル達だろうか?そこに居並ぶ信用ならない虚像たち。そのウソの責任は誰にあるのか?或いは、皆、共犯者だと考えることもできる。ブロンズも石膏も光もロダンもモデル達も。

(僕の五感ですら、その機能の限界によって、僕にウソをつくだろう)



 その空間に漂ういかがわしさはウソそのものがもたらすものというより、誰がついたウソだか分からない、その気持ち悪さがもたらすものではないか。ロダンの活躍した時代や土地の空気まで含めた様々なものが共謀している。もちろん時代や土地が共謀するってことはないんで、結局は人間なのだけど。その時代の人々の間でドクサと化している権威主義。無批判で牧歌的な国家主義。芸術至上主義。むろんそれはロダンの作品を飾る現代の、日本の美術館やそこに来る客だって(僕もか?)捕らわれていないとは言えないだろう。そしてその共謀の前で、僕には何一つ対抗手段がない。集団の空気、集団の閉塞の中に閉じ込められることへの忌避感情。不愉快なサロン。



 権威を表現するものとして、彫刻ほど露骨な芸術もないではないか。偶像崇拝のありかたとして、これほどあからさまで圧迫感のある存在形式もないだろう。見ていると、なんだか無性にむかついてくるのである。ロダンは、確かにそれまでの彫刻のありかたを乗り越えようとしたのだろうけど、その作意すら、その強引なやり口において、ある種の男根主義というか、自己顕示欲の(過剰な)発露のように感じられて、食傷気味になってくる。のみならず、腹が立ってくる。僕はしばらく花子のマスクの前で佇んでいた(無表情な花子のマスクの、触れれば人の肌の感触がしそうなほどのリアルな作りに、半ば見とれながら)。



 だが、そのような極度の胸のむかつきは、その直後、あまりにあっけなく氷解してしまった。花子のマスクから退くとアンリ・バックのブロンズの胸像が目の前にあった。アンリ・バックの表情は穏やかな厳しさをたたえており、寛容と慈愛に満ちていた(「寛容と慈愛」ってイヤラシーな…)。そこにロダンの作意があるとしても、それは誠実なものであるように僕には思えたのだ。そして首をかしげる女性の彫像(石膏)。首を倒した反対側の右のうなじから肩にかけたラインの美しさに思わず見入ってしまった。それを見ていると、ロダンの作意も時代の権威主義も、どうでもよくなってしまった。一人の彫刻に対して真摯な人間がいて、その人間の手になる技術を極めた作品群がある…。



 同じ形の腕や足がいくつも並ぶ。ロダンの修練の痕跡。解剖学的にも正確と言えるほどの(…と会場内の解説に書かれていた)作品を生み出した徹底した観察と鍛錬。特にロダンの彫る“手”の美しさは比類がない。人体の表面の中で、最もユニークで複雑さに富んだ部位。豊かな感情の表出器官。骨と肉と皮と血管の器械的で野性的で音楽的な競演の場。その面白さにロダンは憑かれたのかもしれない(というか僕が憑かれている)。



 段々とロダンに説得されていく自分を発見しつつ(ロダンにではなく、他の誰かにかもしれないが)、さっきまでの腹立たしさが嘘見たいに消えてしまうのがなんだかしゃくに触ったし、一体どうして自分があれほど不快な思いを味わったのか、その経緯が記憶の中ですっかりかすんでしまったことにちょっとした危機感を覚えたので、もう一度最初から一通り見直すことにした。



 (結局、ある種の政治的ないやらしさに対してむかつきを覚えたとしても、説得されるときは理屈ぬき、問答無用だし、一瞬なのだ。それはなんだか恐ろしいことではある)

*1:ロダンの彫刻の奇抜なポーズを利用した、以下のような企画もあるらしい。

http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/exhibition/rodin-taisou_3.html

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ロダン体操は、ロダンの彫刻を真似するものです。ロダンの彫刻は、かなり無理な姿勢をしているものが多いです。ロダン体操をすることによって、こうしたロダン彫刻の特徴を知っていただくことができます。さらには、ロダンがなぜそのような作品を作ったのか、制作意図を考えるきっかけにもなるかもしれません。
ロダン体操は、ロダンの彫刻に親しんでいただくための、きっかけなのです。
考案者の高橋さんは、誰でも気楽に美術に親しんでほしいと願って、これを考えました。
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