「シカゴ育ち」

スチュアート・ダイベック
「シカゴ育ち」
柴田元幸 訳

シカゴ育ち (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (143))


 痒いところにすっと手を差し入れて掻いてくれる作家。或いは、どこが痒かったのかを教えてくれる作家。まあ、作家ってそもそもそういう職業だけど。そういう意味では作家という職業の価値を教えてくれる作家と言ってもいいか。人の愚かさに対する遠慮ない洞察と優しい視線があっていい。細部の描写がうまい。加えて詩人だ。



 人が人から目をそらすということ。ある話題が持ち上がったときに。取り繕うこともできない傷ってのがある。

 解決するということがありえない問題がある――というより全ての問題は、解決されない。描かれたもの(出来事、傷)は消されるのではなく、上書きされる。ときどきは、うまく上書きできたように思えることもある。



 階上に上げたピアノの下ろし方が分からない。単に、上げるのと下ろすのでは作業の質が違うからというだけかもしれないし、その秘密を知っている人がいなくなってしまったからかもしれない。年月が経ちすぎて、その方法を忘れてしまったからかもしれない。



 戦死した夫の軍服姿の写真をしまいこんで、代わりにもっと昔の、戦争前に所有していた自動車のステップに腰をかけている亡き人の写真を――写真の中でその人は、近所の飼い犬の頭をなでている――飾る母親の姿は、親子の距離が近いようで遠いことを息子に教えてくれる。


「前によく夜泣きしていた坊やは、あなたかしら?」

「僕の泣き声で起きちゃったの?」
「それは心配いらないわ。私、もともとすごく眠りが浅いの。雪が降っても目がさめちゃうのよ。何とかしてあなたを助けてあげられたらなって、よく思ったわ。ほかのみんなはぐうぐういびきをかいているのに、あなたと私だけ、真夜中に一緒に起きているんですものね」

 夢が、夢を見ている人間から逃げ出したくなることなんてあるのだろうか?

 恋人よ、今夜はすごい夜だ。流れる水の縞模様に飾られた夜は、百万もの水漏れに貫かれ、もう二度と元に戻りそうにない。君がいないこと、そのことが投げる影に似たかたちの夜。あらゆるひびから水は流れ出し、あらゆる張り出しからしたたり落ちる。