タリバン


 田中宇さんの「タリバン」を読んだ。


タリバン (光文社新書 (003))



 アフガニスタン周辺に関する基本的な知識を何も持っていなかったので非常に参考になった。



 「タリバン」というのは、そもそもアラビア語「学生たち」という意味なんだそうだ。ソ連のアフガン侵攻後、隣国パキスタンの難民キャンプで生まれた学生と先生(聖職者)たちで結成された運動体とのこと。



 パキスタンアフガニスタンの国境付近はガンダーラと呼ばれていた。この辺りで紀元前四世紀頃、ギリシャアレキサンダー大王の遠征を期にギリシャとインドの文明が出会った。ふーむ…。



 しかしまあ…インドやモンゴル、イスラム帝国などに囲まれた土地で、多くの戦乱に巻き込まれているわけですな。



 とりあえず現代に近い時代に話を絞ると、十九世紀にイギリスによって侵略が試みられた。



 イギリスは一八〇九年、当時のアフガン国王シャー・シュジャーとの間に軍事同盟の条約を結んだが、その後カブールで政変があり、アフガン軍の将軍が国王を追い出して自ら新しい国王となり、バラクザイ朝という新王朝を作った。
 イギリスは、追放された前国王との間の軍事協定を守り、その政権回復を支援するという名目で、一八三八年にインドからアフガニスタンに侵攻した。イギリス軍は難なくカブールを占領し、軍人や行政官の家族も呼んでカブールに駐屯し、インドを植民地にしたときと同様、アフガニスタンを支配しようとした。
 だが、イスラム教徒のアフガン人にとって、異教徒による支配は容認できるものではなかった。
 一九七九年にソ連が侵攻した時と同様、聖職者が「聖戦(ジハード)」を布告した。それに呼応してゲリラ戦が始まり、イギリス支配が始まって二年後の冬には、カブールで住民が決起した。
 国民皆兵的な反抗に抵抗できず、イギリス軍は積雪の中を敗走したが、ジャララバード近郊まで来たところでアフガン人勢力に戦いを挑まれ、一万六千人が全滅した。この戦いから生きて帰り、カイバル峠を越えてペシャワールまで帰り着いたのは、従軍医師ただ一人だけだった。彼は英軍が全滅した証人として、帰ることを許されたのだった。
 イギリスは翌年、仕返しの再侵略をしたが、カブールの街を破壊し尽くしただけで、勝つことはできず、再び敗走した。

(P.126)




次にロシア。




 十九世紀末になると、北方のロシアが南下政策を強め、中央アジア諸国を支配し、アフガニスタンにも影響力を伸ばそうとして、一八七八年にはアフガン政府の抗議を無視して、軍事顧問団をカブールに派遣してきた。
 ロシアはアフガニスタンを支配できたら、さらに南にあるインド洋に面したバルチスタン(英領インドの一部、今はパキスタン領)を手中におさめ、ロシア艦隊の軍港とすることを狙っていた。
 これを脅威に感じたイギリスも、対抗して軍事顧問団をカブールに派遣してきたが、カブールへの入城を拒否されると、仕返しとしてカブールを攻撃し、国王に対して無理矢理、外交をイギリスに任せるという条約を結ばせ、アフガニスタン保護国にしてしまった。このときのイギリスとロシアの確執は「グレート・ゲーム」と呼ばれている。
 その後、イギリスはアフガニスタンの直接支配を計画しなくなったが、代わりにアフガニスタン領の東側を削り、英領インドに編入した。それまでアフガニスタンと英領インドの境界線はインダス川だったが、一八九三年には新協定によって、カイバル峠のさらに西側まで、国境線が百五十〜二百キロほど西へ移動し、アフガニスタン領が減った。
 この新しい国境線は、協定を作った当時のイギリス側代表の名前をとって「デュランライン」と呼ばれるが、この一方的な国境線の変更が、その後今日にいたるまで、アフガン情勢の複雑さに拍車をかける原因の一つとなった。
 アフガニスタン東部から南部にかけては、パシュトン人が住んでいた。彼らは最近ではムジャヘディンやタリバンを組織した人々で、勇猛さと結束の強さで知られている。デュランラインは、そのパシュトン人の居住地域を東西に二分することになったが、彼らはそれを拒否した。イギリスの支配下に入ることも認めず、自分たちの地域に入ってくるイギリス軍に対してゲリラ的な攻撃を続け、国境を無視して往来し続けた。
 パシュトン人の抵抗があまりに強いので、イギリスは一九〇一年、デュランライン沿いのパシュトン人居住地域を「部族地域」と呼ばれる特別な自治区域とすることで、折り合いをつけることにした。この地域内では、行政や司法の権力はパシュトン人の村落の伝統的な意思決定機関である「ジルガ」に任され、イギリスは大きな反乱などが起きない限り、介入しなかった。この独特のシステムは、一九四七年に英領インドが独立した後も、パキスタンによって引き継がれ、現在も続いている。

(P.128)




 ついで、国王主体の近代化が始まる。が、これは国民に必ずしも受け入れられていない。



 アフガニスタンでは二十世紀に入り、西欧型の近代化を進めたい王室と、保守的な聖職者を中心とするイスラム主義の勢力が、激しく対立するようになった。カブールやヘラートといった都会の人々は、古代のシルクロード貿易以来のコスモポリタンな気風を持っていたため、西欧型の近代化を支持する人も多かったが、地方の村では外からの変化に反発する保守的な気風が強かった。
 一九二八年、国王アマヌラーは七ヶ月間のヨーロッパ諸国歴訪を経験し、アフガニスタンを西欧的な近代国家にする必要性を感じた。彼は帰国後、国民に対してヨーロッパ風の服装を着ることを命じた。女性がスカーフなどで体の線を隠さねばならないイスラムの服装規範を排除し、男性だけでなく女性にも近代教育を受けさせる政策を始めた。
 この近代化政策は、カブールなどの都会では受け入れられたものの、地方の村では聖職者を中心とする人々に強く拒絶された。国王は背教者だと言い出す聖職者が増え、反乱軍が組織され、国王は亡命に追い込まれた。
 これを平定したのは、軍司令官の一人だったナディール・カーンという人物だった。彼は、地方を代表する聖職者たちに推挙されて国王となり、イスラム法を国家の法体系とすることを決めたが、その翌年には西欧風の憲法も作ったため、両方の法体系が矛盾して立ち並ぶ状況となった。

(P.131)



 こんなページも見つけた。


http://www.hikyaku.com/afghan/afghistj.html