「丸山眞男」をひっぱたきたい

赤木智弘さんのブログにアップされた、論座2007年1月号と6月号に掲載された文章を、今回初めて読んだ。


深夜のシマネコBlog
http://www.journalism.jp/t-akagi/

「「丸山眞男」をひっぱたきたい」
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html

「続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」」
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama2.html


ちなみに、この二つの文章の間にさしはさまれるはずの、七人の識者による「反論」は読んでいない。なので私は、この第二の文章については、「想定される反論に対する反論」として、今のところは読んでおこうと思う。



結論から言えば、まったく見事な文章という感じ。



もちろん、このような問題提起は目新しいものでもなんでもないように私には思えるが、ヒトラーの言うように、「大衆」には一つのことを繰り返し繰り返し言わねばならないのであって、こういう議論も繰り返し繰り返しなされなければならないのだろう。

私自身は、戦争を希望とは思わない。自らを「戦争に向かわせない」ために、誰かに訴えかける必要性も感じない。赤木氏は、このままでは私は(赤木氏は)戦争に向かってしまうかもしれない、という危惧を表明しているが、私にはそのような危惧はない。
この、私と赤木氏の違いは、どこから生じたのだろうか?そんなことは、私にであれ他の誰にであれ、分かるわけがないが、合理的な理由をデッチあげることはできる。

例えば、次のように想定することも(デッチあげることも)可能だ。つまり、私が、赤木氏のような危惧の念を抱く必要がない条件に――赤木氏が恵まれなかった条件に――偶然にも(幸運にも?)、恵まれているからだ、と。

私も赤木氏と同じフリーターであるが、しかも特別な技術も資格も無く、単純労働に従事せざるをえないフリーターであるが、それだけで私と彼が同じ立場に立たされているとは言えない。「差異」(もっと言えば「運による差異」)は、世代間でも存在するだろうし、個々人のレベルでも存在する。



というわけで、幸運にも赤木氏のような「苦境」に立たされずに済んでいるのかも知れない私は、私と彼の「心境の差異が生じる理由」を、「幸運」というものにも他のどんなものにも還元(合理化)しようとは思わない。その理由など分からないからだ。


 右派の思想では、「国」や「民族」「性差」「生まれ」といった、決して「カネ」の有無によって変化することのない固有の 「しるし」によって、人が社会の中に位置づけられる。経済格差によって社会の外に放り出された貧困労働層を、別の評価軸で再び社会の中に規定してくれる。
 たとえば私であれば「日本人の31歳の男性」として、在日の人や女性、そして景気回復下の就職市場でラクラクと職にありつけるような年下の連中よりも敬われる立場に立てる。フリーターであっても、無力な貧困労働層であっても、社会が右傾化すれば、人としての尊厳を回復することができるのだ。
 浅ましい考えだと非難しないでほしい。社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだから。

(「続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」」から)


赤木氏はこのような考えを「浅ましいもの」と認めつつも(「浅ましい考えだと非難しないでほしい」と書くのは、これが「浅ましい考え」だと知っているからだ)、しかし、苦境に立たされた自分には、それにすがるしかないと訴えている。そしてそのような自分の態度を(後ろめたさを覚えながらも?)正当化する理由の一つが、左派や安定労働層の欺瞞である(もう一つの正当化の根拠は、いわゆる「緊急避難」の論理)。

つまり、社会正義などどこにもない、大多数の人びとは、己がさほど窮地に立たされているわけでもないのに、結局自分の利益を守ることにしか感心がない、それならば、彼らよりもよほど窮地に立たされている私がその大多数の人びとと同じ「浅ましい」態度を取ることがなぜ責められなければならないのか、という論理。これは赤木氏の主張に「善悪」の面から、正当性を与える論理だ。

(自己利益を増進するうえでの)「効率」の面からはどうか。戦争はハイリスクである。しかし、運がよければ現状より良い地位を獲得できるかもしれない。つまり、自分が社会の最下層に近い位置にいる以上、ハイリスクハイリターンを選ぶことは、ローリスクローリターンを選ぶより損であるなどとは言えない(つまり、「戦争になったら死ぬかもしれないよ」などという反論は無意味)。もし、今よりもましな状態に自分があれば違った結論が出るかもしれないが。



このようにして赤木氏の主張は、「効率」の面からも「善悪」の面からも、反論が困難になる。劣化ウラン弾とか恐いよー、などと諭してみたところで、それも結局は本人の覚悟の問題でしかない。「浅ましい」という非難なら可能だろうが、正当性を欠いた非難はそれ自体が浅ましい。



ただ、赤木氏は「「丸山眞男」をひっぱたきたい」の最後で、「私を戦争に向かわせないでほしい」と訴えているのだが、これは一体誰に訴えているのだろう。「左派」なるものに訴えているのだろうか?だとしたら私にはどうも違和感がある。赤木氏が「左派」という言葉で、どのような人びとを想定しているのかいまいち分からないのだが、その「左派」なるものに、赤木氏を「戦争に向かわせない」ほどの力があるのだろうか?つまり、現状を変えるだけの力があるのだろうか、ということだが。

「左派」とか「右派」とくくれそうな人びとは確かにいるが、しかし、それ以上に、「無関心層」とでも名づけられそうな人びとこそが、圧倒的な勢力で現状維持に貢献しているのではないか(これは私の感覚でしかないけど)。「左派」は現状打破に貢献はできるだろうが、「彼らだけで変える」力など持たない。そのような現状で、無力な「左派」に現状打破を訴え、しかも、現状打破がなされなければ私は戦争に向かうことを躊躇しないなどと脅迫めいたことを言うことには、首をかしげざるをえない。ある種の無力感は、別に赤木氏だけの特権ではない(とはいえ、赤木氏の文章が訴えかけていることには価値があると思う。つまり、どんな奇麗事を掲げても、多くの人が不平等を見過ごし自己利益を優先させているじゃないか、ということ)。