最低賃金15円値上げ?

先週から本屋でアルバイトを始めた。
時給が安い上に、シフト制で「(仕事に)入れる時に、入れる人が、入る」というシステムだが、「アルバイトは月の総労働時間が120時間を超えないように」という制約がついている。3年前にファミレスでバイトしたときも、同じことを言われた。



民主党が勝ったし、最低賃金あがらないかな。今日の日経新聞には「最低賃金引き上げの目安 15円前後で調整 厚労省方針」と出ていた。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20070802AT3S0102Z01082007.html
もともと自民党が例年通りの「5円引き上げ」とかいうレベルだったのに対して、厚労省は最大で「30円」も視野に入れた案を出していたが、結局は上記のようにまとまったみたいだ。まあ、選挙前は、自民党案で決まりってな感じの記事が出ていたから、それに比べれば多少はマシなんだろうけど。
なるほど、最低賃金は「中央最低賃金審議会」という「厚生労働省の諮問機関」で検討されているわけね。しかもその審議会の中に、さらに「目安に関する小委員会」つーのがあるらしい。まあ、こんなちょぼっとあがったとしても私の時給は最低賃金までは、多少「余裕のある」額なので(払う側から見た場合ってことね)、それほど影響はないだろうが。





ネットをざっと見渡したところ、最低賃金を「あげない」ことを支持する人の意見には、「あげない方がよい」(と労働者を諭す)根拠と「あげられない」(と企業側が言い訳する)根拠の二つがある。



最低賃金をあげれば労働需要が減り、失業が増え、逆に労働者の不利益が増す」という「理論」が、「君らにとってもあげない方がよいでしょ?」と労働者を諭す根拠。これを補完する理論としては、「市場に最低賃金という不純物を紛れ込ませた場合、労働の需要と供給のバランスが不自然に歪められる」というものがあるだろう。

上げたら中小企業の経営が厳しくなる。国際競争も厳しいし」という「予測」が、「あげられない」根拠。まあ、こちらも最終的には「中小企業がつぶれれば労働者諸君も(雇用が無くなって)困るよね」という意味では「諭して」いるのだが。




前者は単なる経済理論なので、反論も単に経済理論で、ということになる。つまり、「最低賃金をあげれば給料が増えて、消費が増えるので景気が良くなる。ゆえにますます労働需要が増える」とかなんとか言えばよい。また、前者を補完する理論に対する反論としては、「そもそも雇用側と労働者個人では、雇用が成立しないときの耐久度に差がある(つまり、雇用側は雇わなくてもしばらくは生き残れるが、労働者は雇われないとすぐに生き残れなくなる)。この買い手(雇用側)独占状態が、そもそも労働市場を歪ませているのであって、権力の介入が無ければ市場はうまくバランスをとるなんてウソ」とか言える。



論争というものは全て、「単純なモデル」と「限定された要素」を恣意的に(?)採用した上での話なのだが、上記の場合、それがあまりに単純かつ恣意的過ぎるので互いに簡単に反論できてしまい、あっという間に、どちらがどちらより正しいとは言えない状況に到ってしまう。この程度の単純な経済理論にはなんらの説得力もなく(要するに、対立する理論同士が相手方の絶対的優位を否定しうるという程度の説得力しかなく)、この観点からは、「最低賃金をあげるかあげないかは、別の価値判断にしたがって行えばよい」ということになる。

↓ここには、そこら辺のことが、もっともらしく書いてある(もっと興味深いこともたくさん書いてあるが)。
http://www.jri.co.jp/JRR/2002/11/op-minimumwage.html



後者に対しては、単に「国際競争が激しい」というだけでは、「それじゃあ、日本よりも最低賃金が高い諸外国は、国民生活が危機に瀕しているの?」という疑問にどう答えるのか。そういう他国の例を根拠に最低賃金引き上げを主張する人々がいる以上、この疑問に答えられなければ、説得力は出てこない。他国と日本では状況が違うのは当然だが、最低賃金をあげられない根拠となるような決定的違いがあるのかないのか。



ハッキリ言って、この程度の単純な理論や予測で「最低賃金の引き上げはムリ」なんて主張されても、上記のように簡単に反論(無効化)できてしまうので、全然説得力が無い。となれば、「下層労働者がまともな生活ができるように最低賃金あげて」という願いが聞き入れられてよい、ということになる。



もちろん経済学に精通している方々は、もっと緻密な議論をしているのかもしれないが、世の中には「緻密な議論」も上記のような「大雑把な議論」も両方あって、ときに、「大雑把な議論のいい加減な説得力」が人びとを「それじゃあ、しょうがないか」と「納得」させ、政治的主張をすることを諦めさせることもある。また、そういう大雑把な理論を持ち出して、最低賃金をあげないことの正当性を強気で主張する人々もいる。例え(私も含め)多くの人が緻密な議論を理解できなくても、少なくとも、そのようなとんちんかんな「諦め」や「強気な主張」が世論に強い影響を及ぼしてしまわない程度には、話はそんなに単純ではないということが「常識」として世間に流布してもよさそうなものだ。
というか、この程度の単純な議論からは、「最下層の労働者の状況を改善する」という倫理的に説得力のある目的を積極的に達成することに対する怠惰を正当化しえない、ということが常識として流布してよい、と言うこと。つまり、このような単純な議論に終始する人びとは、最低賃金をあげることに同意することが倫理的に求められるっつーこと。




ただし、これは「このような単純な議論に終始する人びとは」の話であって、「最低賃金をあげることは直感的に間違っている気がする」とか言うように、「直感」を持ち出したりする人びとについては、その限りではない(特定の倫理的義務を求めたりしない)。「直感」を根拠にする主張には、それ相応の説得力しか生まれないからだ。
私が異を唱えるのは、「論理的な(体裁を持つ)言い」が持つ神通力(説得力)に頼って自己の正当性を確保して起きながら、そのいい加減さに目を向けようとしない姿勢だ。






(私も含めて)多くの人びとが、自分が多くを直感に頼ってものを言っていることを理解するようになるとどうなるか。いや、もっと言えば、自分が直感に頼ってものを言っていることを自ら表明することによって、自分のみならず他人までもが自分が直感に頼ってものを言っていることを知っていることが分かる状況になるとどうなるか。
直感に頼ってものを言うこと自体は、仕方ないことだ。ある程度までは。ただし、あまりにそれが(思考に対する直感の優位が)あからさまになると、おそらく多くの人は恥ずかしく思う はずだ。その程度には、世間は「思考」を信頼していると思う(だから、「自分はあくまで思考している」とアピール&自覚したいがために、自分の主張を「論理的な体裁」で飾ろうとする人びとが多い)。そうすると少なくとも「強気で」発言することはできなくなる。それから専門家の議論に耳を傾けようと思う人も、多少は増えるだろう。それが専門家の「公開の場での議論」の需要を増やす。需要が高まれば、それが実現する場も増える。そのような場で議論が行われた場合、それを理解し納得する人も増えるだろうし、たとえ理解できなかったとしても、少なくとも専門家の「共通の理解は何なのか」ぐらいは理解する人も増えるだろう。そのことが庶民の「大雑把な議論」の質を向上させる。