2008年7月5日(土) そもそも君らに個性などない、のか?

地下生活者の手遊びさんの記事、「個性と個体差の違いがわからないのは文化とはいわない」を読んで、ちょっと思ったこと。



記事の内容のいわんとするところには、ほとんど異論はない。



ただ、最後に結論付けられた「ガキに言うべき警句」四か条なんだが、有効ではあると思うが、別にこんな言い方をする必要もないし、正確でもないような気がする。

  • 感性とか言っていいのは、感性の鋭い奴だけ
  • 他人と同じことができるようになってから、他人と違うことをすると言え
  • そんなに他人と比べられたくないのか?
  • そもそも君らに個性などない

「そもそも君らに個性などない」というのは、半分は同意できるし、半分は同意できない。
「個性」と「個体差」を分ける、というニュアンスは分からないではないが、これらはそんなにはっきりと分けてしまえるものだろうか。
その上で、生得の「個体差」プラス生得でない「環境差」。これらは人の独自性を生み出しうるだろう。「環境差」とは、姉と弟は、互いに「姉がいる環境」「弟がいる環境」を享受できないという環境差に生きている、というところまで含めている(細かすぎるか?)。
が同時に、周囲の環境は「言語」や「文化」というベースを与えることで、人を無個性化するものでもある。姉と弟は同じ家族の中で、同じ文化にさらされている。
そういう周囲の環境から多くを吸収して成長せざるをえない我々は、好むと好まざるとに関わらず、無個性化されると同時に、個性化されているとも言える。



僕も直観的には、無個性化の効果の方が大きいと思うので、地価猫さんの言っていることに概ね同意できる。
ただ、「私の個性」なるものに取り付かれている人がある勘違いに囚われているとしても、その勘違いは「ないもの(個性)をあると勘違いしている」のではなく、「凡庸な『ある感じ方』を個性的な感じ方と勘違いしている」というものではないか。



人の周囲との関わり方には二つありえるだろうと思う。一つは、周囲に対してリアクションするやり方。もう一つは、周囲と同じアクションをするやり方。後者は模倣であるのに対し、前者は独自でありうる。
ただし、リアクションの仕方自体が模倣ということもありえるし、ありえるどころかリアクションの大半は模倣だと思う。笑い方や怒り方も含めて。



そして人は、せっかく与えられた「差異」を自ら積極的に無化するように、凡庸で便利な感性や方法を周囲から学び、そして、その凡庸なアクションやリアクションで組み立てられた言語世界の内から、無理矢理「個性」なるものを調達しようとする。だから結果として、(訓練をつまないものは)個性を求めながら凡庸に至ることになる。



だから多分個性を生み出す、或いは、個性が生まれてしまうルートには二つあって、それは自分が(無意識のうちに)積極的に無化しようとしてもなお消えない部分から生まれるものと、逆に、凡庸で特殊な訓練を積む中から生まれるもの。
そして多分、前者はコントロールできない。だから自分がコントロールできる範囲では、選択肢は後者しかない。



他人の言葉や行動が、自分の欲望のありかを教えてくれた、という経験は誰にでもあるのではないか。我々の欲望は「形」を与えられなくてはならない。「形」を与えるものこそが技術だし方法だ。生まれたときから周囲に満ちている言語や習慣も、方法や技術の一つではあるが、それは限られた必要を満たすためだけのものであって、そんな日常レベルで学べる範囲では精度が低すぎるし、むろん凡庸であることは免れない。
美術にしろなんにしろ、特殊な業界の基礎訓練とは、技術や方法を学ぶことだろう。それを学ぶことによって我々は自分の欲望のありかをより精確に発見するし、それを表現する方法も発見するのだろう。



蛇足かもしれないが、これは特殊な業界の基礎訓練の話しであって、一般的な学校教育には当てはまるとは限らない。つまり数学という特殊業界には数学の基礎訓練があるべきだろうが、それは数学を学ぶことを前提とした話しであって、数学を学ぶ必要がなければ、もちろん数学の基礎訓練も必要はない。
地下猫さんの記事のブクマコメントの中に、「教育というのは「個性」と呼ばれる「個体間の差異」を埋めて社会に適応させるのが目的のものだ」というのがあったが、これは地下猫さんの意図とはなんら関わりのない論点だ。
地下猫さんが言っているのは、個性を発揮したい者がいた場合に何が必要かということであって、「個性を埋める」教育なるものを肯定しているわけではない。



教育は本来、方法、技術(数学なんかでは「考え方」)を教えるものであって、答えを教えるものではないと僕は考えている。方法や技術を習得することは、個性を発揮するきっかけを与えうるもので、一方的に個性を埋めることにはならないだろう。始めから一つの答えしか許さないことが決まっているような教育は、愚かしいとしか言いようがない。