図書館がホームレス排除に苦心しているとかいう件についての私からの提案
への応答である
ホームレスに人権があるだなんてただの屁理屈だよ
から引用。

違うよ。ホームレスを「公共空間における悪臭」として(でもなんでもいいからとにかく)「排除」することによって、世の中が成り立ってるんだよ。人間は神の前でみな平等という考え方は、もしかしたら世の中の本質かもしれない。しかし実存は本質に優先するのだ。

しかし「ホームレスを〜〜世の中が成り立ってるんだよ」というのは、ほんとうなのでしょうか?まあ、本当かもしれません。ただし、ちょっと違うと思う点が二つあります。



一つ目は、もとのid:Romanceさんの文章は「ホームレスを排除の対象としか思えないこと」を「恐ろしいこと」と言っているのであって、「排除によって世の中が成り立っているわけではない」ということを主張しているわけではない、ということ。「現実がどうあるべきか」という発言に対し、「実際はこうなっている」と応答するのでは、話しが噛み合っていません。



二つ目は、「世の中=社会」が(現実として)排除してしまうかどうかと、「国家がそれに加担するかどうか」は別の問題だということ。現実は、「綱引き」であって、例え「社会」が(というか、「ある集団」が)何かを主張したとしても(ホームレスの排除を主張したとしても)「国家」がそれに耳を貸さずに放置しておく、ということはよくあることだし、それは場合によっては、一つのテクニックとして採用されてよいと思います。


国家による生存権保障っていうのは権力を維持するための、ただの手段だよ。それが世の中の真理だから国家はそうせざるを得ないのではなくて、それが権力を維持するのにたまたま都合がいいから利用しているだけ。

妙な対比が行われているように思えます。つまり、

  • 生存権保障が世の中の真理だから国家はそうせざるを得ない
  • それが権力を維持するのにたまたま都合がいいから利用している

という二つの考えが並べられて、前者は間違い、後者が正しい、と主張されています。別に、この主張自体に異論はありません。ただし、やはり論点がずれていると思います。もとのid:Romanceさんの主張は(いや、別にid:Romanceさんの主張がどうであろうが、関係なく)「現実にどうか」ではなく「どうすべきか」についてのものでしょう。つまり、現実には後者が真実であったとしても、「国家は生存権保障をすべき」という主張は、それとは関係なく成立したりしなかったりします。



それが(「生存権を保証すべき」が)自明ではない、という意見には同意できますが、「そもそも国家は都合よく利用しているだけ」というのは、その論拠にはなりえないでしょう。


ホームレスにも人権があるというのは、まったく自明ではないと思う。ホームレスが道徳的規範からはずれた概念であることは確かだし、それを「排除」することによって成り立っているものもある。一方で、国家が提唱する人権とは、その系譜から、そもそも構造的に矛盾したものだ。

これもあまり正確ではないと思います。基本的人権として言われるようなものも、明らかに一つの道徳規範たりえます。上の文章を見ると「国家が提唱しているものが道徳的規範と矛盾している」と、まるで世の中には道徳規範がたった一つしかないように読み取れます(id:chnpkさんがどう考えておられるのかは、よく分かりませんが)。しかし、実際には、世の中には「資本主義を成り立たせている道徳的規範」以外にたくさんの道徳的規範を抱えています。つまり「ホームレスを排除する」ことを正当化する道徳規範とそれを否定する道徳規範が並存しているのがこの世の中なのであって、だからこそ国家はそのどちらにもいい顔をしている(「基本的人権」をかかげながら、「勤労」を国民の義務としたり)。



(1)ホームレスという概念が社会的に排除されることは必然的であって、(2)人権という概念は国家が生み出した欺瞞である。(3)よって、「ホームレスに対する保障を強化しろ」という類の言説はそういう国家の欺瞞に乗じた単なる屁理屈であり、(4)そんなことをしても国家の暴力性が助長されるだけである。(5)じゃあどうしたらいいのかっていうと、社会を強化する(みんなで考える)しかないよね(佐藤優「国家論」)。

このうち、(2)がよく分からない。国家が「人権」という概念を生み出し、それを欺瞞的に用いたとしても、「人権」という発想自体が、なんらかの欺瞞性を有しているわけではないでしょう。むしろ、「人権」という概念は、国家が生み出したものでありながら、その国家の欺瞞性を暴露する力を持っているように思えます。



そういう意味で(3)を見るなら、かような言説が「国家の欺瞞に乗じ」ていることは確かだとしても、だからといってそれが「屁理屈」であるとはいえないでしょう。なぜそれで(4)で主張されるように国家の暴力性が助長されるだけなのか、その筋道がさっぱり見えてきません。なぜなら、人権という国家が生み出し欺瞞的に用いてきたものは、その国家の暴力性自体も否定するような構造を有しているのだし、それゆえに、それをどのように運用したらよいかということについて常にジレンマを抱えざるをえないものだからです。そもそも国家が暴力的であるのと同じように国民だって暴力的なわけで(国民と国家を分けられるのかよく分かりませんが)、その双方の暴力性に対して一つの防波堤として「人権」概念は、有効だと考えます。



「人権」の出自がどうであれ、それは生み出された瞬間から一人歩きをはじめているのであって、単純に国家の暴力性を助長するだけのものではないと思います。「人権」的発想のもとに暴力が行使されることがあっても、それはその行使する者が「人権」を欺瞞的に使用しているということであって、「人権」自体の欺瞞ではありません。それなのに、その「出自」とか「使用するもの(国家)の欺瞞性」という間接的な断片をもちだして、「人権」自体を過剰に危険なものののように見せかけようとするのは、単に、そういう普遍概念の影響力を弱め、「伝統」とか「国家」とかそういうものを復権させたいと願う者の用いる屁理屈のようにしか思えません。