作るきっかけ、オタク

何か(モノとか考え方)を創る動機とかきっかけにはどういうものがあるだろう。

  1. 必要性
  2. 執着
  3. 対立


◆「必要性」というのは、毛皮のコートを南国の人が作ることはないだろうな、ということ。

◆「執着」というのは、あるモノとか考え方が、最初はなんらかの「必要」に応じて(手段として)作られたのが、いつの間にか本来の目的を忘れ、「そのモノ自体に対する執着」という脇道にそれる、そのモノ自体が目的になる、ということ。もしくは、最初から目的もなく「ただ面白いから」発生する執着みたいなのもあるかも。

◆「対立」が創造のきっかけ、というのは、「目的の再確認」が創造のきっかけ、と言いかえてもよさそう。「必要性」というのも、そもそも私を害するなんらかのものがあって(北国の寒さとか)、それを克服するということの「目的化」(そこで創造されるものは「目的」のための「手段」)。人が生きるうえで、あまりに当たり前になっている環境(≒運命)を克服するということは、崇高だったりするだろう。そういう克服劇に馬鹿らしい感じはしない(かもしれない)。その点、つまらない(不必要な)対立に勝利することは、不毛な感覚を起こさせるだろう。そういう対立があったからこそ、必要とされた(手段化された)新しいモノや古いモノも、同じように「馬鹿らしい」感じを起こさせるかもしれない。
しかし、馬鹿らしかろうがなんだろうが、「対立」は「必要」を生み、それは創造につながるし、生み出されたモノ自体は、思わぬかたちで馬鹿らしくない目的にも役立つかもしれない。それに「馬鹿らしい」ものも、「馬鹿らしくない」と思い込むことは可能だ。「馬鹿らしい」ことに重い「犠牲」が払われたがゆえに、「馬鹿らしくなかった」と思い込まれることもある。





それでまあ、以上のような動機やきっかけで、モノとか考え方が生まれる。しかし、この動機やきっかけは、あくまで一部の人間のものだ。つまり、北国の人間の動機やきっかけは、南国の人間に共有されるとは限らない。もちろん、北国であろうが南国であろうが、隣のおばさんの動機が、近所のおじさんに共有されるとも限らない。

きっかけや動機は個別に起こる。ただし、そこで作られたモノや考え方は、普遍性を帯びる。要するに、北国で作られたモノは、南国でも役立つかもしれない。モノや考え方は作られたと同時に、きっかけや動機とは無関係に「存在」してしまうからだ。



だからこそ多様性は豊かさだ。自分の「生き方」や「環境」では少々の不便さしか感じないので、面倒くさがって工夫しない(創造しない)ようなことでも、他人の「生き方」や「環境」ではかなりの不便が感じられるので、工夫(創造)されたりする。そうすると、その創造物(考え方とか生活様式も含む)が、自分にも役立つ。



違う生き方をする人、オタク的に何かに執着する人は、僕の生活の豊かさに貢献しうる。ただしそれは、この人たち自身の態度如何にもよる。たとえば、ある生き方をする人びと、オタク的に何かに執着する人びとが、他人の生き方や存在をうとましく感じ排除しようとすることもあるかもしれない。そういう人が少数ならまだいいが、それが社会の多数になってしまったら困る。…もうなってたりして…。



個別の由来を持つものが「自然に」多くの人に共有されていくならいいのだが、多くの人に共有されるように強制力をもって画策されるのは不快だ。この「不快さ」を強く感じる人、あるいは、その不快さの克服になんらかのきっかけ(「それ自体の面白さ」とか、なんらかの「つまらない対立」とか)で執着する人が生み出す「思想」や「技法」が、ひょんなことで多くの人に共有されるということもあるかもしれない。



ところで、ある動機やきっかけにおいて個別に生み出されたものが、別の生活を豊かにすることは、一般的に「応用」と呼ばれる(かな?)。「応用」する能力は「概念化」する能力と関係があるだろう。「概念」は具体的な事物を形無しにすると同時に「慣習的使用」を解体する。



応用する能力の無さと非寛容の度合いが比例する保証はない。けれども、応用する能力が著しく低ければ、多様性のもたらす豊かさはあまり実感(or想像)されないかもしれない。

「かわいい」とかいろいろ

http://www.suda.tv/archives/2007/09/post_708.php

これは喜んじゃいけないよね?どっちかといえば、腹立たしい事なんだよね?

なんか、最近までは可愛いと言われて悪い気してなかったんだけど、今更になって、

もしかして馬鹿にされてんじゃねー?っって思ってしまったり。

http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20070923/1190513898

「かわいい」って言葉は力関係が下であるものに対して、

「保護したい」「大切にしたい」という欲求を発する言葉だと思われる。

こういう特性がある上に、そういう特性があるということを皆が了解している言葉として「かわいい」という言葉があって、こういう安定感はけっこう便利だったりする。とはいえ「かわいい」は、曖昧な言葉であったりもする。須田さんも言われるように、賞賛されているのか馬鹿にされているのかよく分からない。そういう曖昧さがありながら、平然とその地位を保っている言葉。


※「かわいい」は力関係が下にあるものに対して発せられるけれども、発せられた瞬間に、別の次元での「力関係の逆転」が承認されている言葉だ。要するに多元的な権力構図を、対象との関係に導入する言葉なわけだ。だって「かわいい」原理主義的には、「かわいい」ものこそが権力を持つのだから。「かわいい」と発した当人が、相手の「かわいい力」を認めているというわけだ。まあ、自分と相手でどっちが「かわいい」かを言わないか、相手の方が「かわいい」と言明する限りにおいて。



(「かわいい」とか「美しい」とか「キモイ」とか)言うってのは、要するに言うってことであって、思うってことじゃない。



人が言葉を発する回路がどうなっているのか僕には分かりかねるけれど、思っていることをそのまま口に出すほど単純ではないと思う。というか、そういう回路もあるだろうけど、そうでない回路もある。で、そうでない回路の方がよく使われている気がする。



それに、自分が感じていることを「そっくりそのまま言葉で」表現することは、かなり難しい。現実に難しいだけでなく、皆さん難しいと感じてもいるだろう(と勝手に推測しておく)。そういう困難がある上に、思っていることを苦心惨憺、「なるべくそのまま」言葉に翻訳して口に出したら出したで、それが相手の思わぬ反応を呼んだりする。自分は「いい表現」だと思って口に出したのに、相手は「嫌な表現」と受け取ったり。そんなわけでやたらと「いやいや、いい意味でよ、いい意味で」なんて言い訳がなされたりする。



こんな二重の困難にみまわれがちな「コミュニケーション」つーものを、いったい誰が、「まっとうな形で」「誰彼かまわず」トライしてみようとするだろうか。しない(ウソ。とにかくズバっと言うべきと考えている人がたまにいる。ズバっと言うことが(多くの人に)役に立つ場面は確かにある。しかし、場面を考えず「ズバっと言う」というスタイルを押し通す人もたまにいて、コワイ。また、「ズバっと言う」教の人が誰に対してもズバっと言うかというと必ずしもそうでもなく、無意識のうちに場面によって態度を使い分けていたりもする(自分のために)。そのくせ、「私は誰にでもはっきりとものを言う」なんて言ったりするだけでなく、実際にそう思い込んでいたりする)。



usauraraさんの言うように、「口に出さずにおれないような「関係性」がある」ときに、かと言って、何を口に出したらよいのかよく分からないときに、「かわいい」みたいな安定感のある言葉は非常に便利だ。「かわいい」という言葉が発せられるのは、「かわいい」という言葉の特性をいかした戦略的な発話である可能性がある。とはいえ戦略的なのは、特別な感情をもっている証拠というわけでもなくて、要するに、「口に出さずにおれないような「関係性」“は”ある」が、それ以上ではない人とどう接するかというのが、実は一番難しいというだけのことじゃなかろーか。



ところで、「かわいい」という言葉の印象に関する、須田さんの変化とusauraraさんの変化の方向性は逆を向いている。


須田さん
http://www.suda.tv/archives/2007/09/post_708.php

なんか、最近までは可愛いと言われて悪い気してなかったんだけど、今更になって、もしかして馬鹿にされてんじゃねー?っって思ってしまったり。

usauraraさん
http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20070923/1190513898

私はそんなふうに、「かわいいと言われることも、悪くないなあ」と思えるようになったよ^^

つまり、自分に向けられる「かわいい」という言葉をどう感じるかについて、そもそも前提が逆ということ。須田さんは、そもそも「良い印象」を持っていた。usauraraさんは「良くない印象」を持っていた。大雑把に言うと。

※ちなみに僕自身は、基本的にずっと「良い印象」を持ち続けております。大雑把に言えば。



でまあ、この「前提」というやつは多分言う側にもあって、「かわいい」というのは、まさに須田さんの感じられている通り、「対象に対する権力の確認」という側面があるだろう。ただし、「対象に対する権力の確認」は、発言者自身の自己満足のためになされるとは限らない。例えばそれは、場の健全さを回復する試みであったりもする(のではなかろうか)。



お笑いコンビがお互いをけなしあうというのが、同様の役目を「場」に対して果たす。お互いにけなしあえるというのは、健全な関係でなければできない(健全であるからけなしあえるのか、けなしあえることで健全であるとみなそうとするのかはともかく)。「かわいい」と言う言葉を「気軽に言える」、つまり、相手を馬鹿にしているととられかねないような言葉(あるいは、馬鹿にしている言葉)を「気軽に言える」という関係性がそこにあることの証明としての「かわいい」という発話。そういう回路もあるんじゃなかろうか。



だからそういう意味じゃ、「かわいい」という言葉は、「馬鹿」という言葉と同様の役割を果たしているかもしれない。あ、そうか。「馬鹿」は関西弁の「あほ」に比べるとキツイんだっけ(ということがよく言われるが、本当ですか?僕は中学高校と部活に入っていたのだが、先生とかOBが部員に対して愛情たっぷりに「お前ら本当にバカだな〜」と言っていて、「馬鹿」ってのは褒め言葉だな、と思っていたのですが)。それじゃ、「かわいい」は「あほ」と同様の役割ということで。






つまり「印象の良くない言葉」であることを前提とした上で、それを「そんな言葉を言い合える、良好な関係」を証明する道具として使用し、逆の価値を発生させる。そういう使用法。ただし、だからと言って、特別良い関係があるというわけでもなく、本音を言うのははばかられるからこそ、「かわいい」という安定的な言葉でお茶を濁してもいる。






……という可能性もある。もっと正直に(好意的に、馬鹿にして)使っている可能性もある。



でも、仮に「正直に使っている」としたって、そもそも人って、ある特定の人物に対して、ひたすら「馬鹿にしたり」、逆にひたすら「愛したり」するだろうか?どうも疑わしい。一人の人をある面では「馬鹿にし」別の面では「尊敬し」、そういう風にして、自我の安定をはかっていたりするんじゃなかろーか(だって尊敬しきりじゃ、嫉妬に押しつぶされてしまうもの)。ある人物を「馬鹿にする」ことと「尊敬する」ことは矛盾しない。まあ、これは僕がそうだということで、それを他人にもあてはめるのは「投影」ってやつか。そうそう。他人を「かわいい」と思うことで、自我の安定をはかろうとする僕みたいな「かわいい」人もいる。「かわいい」と言う人を多めに見てほしい。僕は他人にそんな自分を投影するので、多めに見ることができる。心が広い。



いずれにしろ「かわいい」と言われただけで、しかも相手がそれを「馬鹿にする」言葉として使っていたとしても、実際「馬鹿にされている」のかどうかは分からないし(「あほ」的用法)、「馬鹿にされている」としても、「尊敬され」たり「愛され」たりしていないとも限らない。