「かわいい」とかいろいろ

http://www.suda.tv/archives/2007/09/post_708.php

これは喜んじゃいけないよね?どっちかといえば、腹立たしい事なんだよね?

なんか、最近までは可愛いと言われて悪い気してなかったんだけど、今更になって、

もしかして馬鹿にされてんじゃねー?っって思ってしまったり。

http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20070923/1190513898

「かわいい」って言葉は力関係が下であるものに対して、

「保護したい」「大切にしたい」という欲求を発する言葉だと思われる。

こういう特性がある上に、そういう特性があるということを皆が了解している言葉として「かわいい」という言葉があって、こういう安定感はけっこう便利だったりする。とはいえ「かわいい」は、曖昧な言葉であったりもする。須田さんも言われるように、賞賛されているのか馬鹿にされているのかよく分からない。そういう曖昧さがありながら、平然とその地位を保っている言葉。


※「かわいい」は力関係が下にあるものに対して発せられるけれども、発せられた瞬間に、別の次元での「力関係の逆転」が承認されている言葉だ。要するに多元的な権力構図を、対象との関係に導入する言葉なわけだ。だって「かわいい」原理主義的には、「かわいい」ものこそが権力を持つのだから。「かわいい」と発した当人が、相手の「かわいい力」を認めているというわけだ。まあ、自分と相手でどっちが「かわいい」かを言わないか、相手の方が「かわいい」と言明する限りにおいて。



(「かわいい」とか「美しい」とか「キモイ」とか)言うってのは、要するに言うってことであって、思うってことじゃない。



人が言葉を発する回路がどうなっているのか僕には分かりかねるけれど、思っていることをそのまま口に出すほど単純ではないと思う。というか、そういう回路もあるだろうけど、そうでない回路もある。で、そうでない回路の方がよく使われている気がする。



それに、自分が感じていることを「そっくりそのまま言葉で」表現することは、かなり難しい。現実に難しいだけでなく、皆さん難しいと感じてもいるだろう(と勝手に推測しておく)。そういう困難がある上に、思っていることを苦心惨憺、「なるべくそのまま」言葉に翻訳して口に出したら出したで、それが相手の思わぬ反応を呼んだりする。自分は「いい表現」だと思って口に出したのに、相手は「嫌な表現」と受け取ったり。そんなわけでやたらと「いやいや、いい意味でよ、いい意味で」なんて言い訳がなされたりする。



こんな二重の困難にみまわれがちな「コミュニケーション」つーものを、いったい誰が、「まっとうな形で」「誰彼かまわず」トライしてみようとするだろうか。しない(ウソ。とにかくズバっと言うべきと考えている人がたまにいる。ズバっと言うことが(多くの人に)役に立つ場面は確かにある。しかし、場面を考えず「ズバっと言う」というスタイルを押し通す人もたまにいて、コワイ。また、「ズバっと言う」教の人が誰に対してもズバっと言うかというと必ずしもそうでもなく、無意識のうちに場面によって態度を使い分けていたりもする(自分のために)。そのくせ、「私は誰にでもはっきりとものを言う」なんて言ったりするだけでなく、実際にそう思い込んでいたりする)。



usauraraさんの言うように、「口に出さずにおれないような「関係性」がある」ときに、かと言って、何を口に出したらよいのかよく分からないときに、「かわいい」みたいな安定感のある言葉は非常に便利だ。「かわいい」という言葉が発せられるのは、「かわいい」という言葉の特性をいかした戦略的な発話である可能性がある。とはいえ戦略的なのは、特別な感情をもっている証拠というわけでもなくて、要するに、「口に出さずにおれないような「関係性」“は”ある」が、それ以上ではない人とどう接するかというのが、実は一番難しいというだけのことじゃなかろーか。



ところで、「かわいい」という言葉の印象に関する、須田さんの変化とusauraraさんの変化の方向性は逆を向いている。


須田さん
http://www.suda.tv/archives/2007/09/post_708.php

なんか、最近までは可愛いと言われて悪い気してなかったんだけど、今更になって、もしかして馬鹿にされてんじゃねー?っって思ってしまったり。

usauraraさん
http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20070923/1190513898

私はそんなふうに、「かわいいと言われることも、悪くないなあ」と思えるようになったよ^^

つまり、自分に向けられる「かわいい」という言葉をどう感じるかについて、そもそも前提が逆ということ。須田さんは、そもそも「良い印象」を持っていた。usauraraさんは「良くない印象」を持っていた。大雑把に言うと。

※ちなみに僕自身は、基本的にずっと「良い印象」を持ち続けております。大雑把に言えば。



でまあ、この「前提」というやつは多分言う側にもあって、「かわいい」というのは、まさに須田さんの感じられている通り、「対象に対する権力の確認」という側面があるだろう。ただし、「対象に対する権力の確認」は、発言者自身の自己満足のためになされるとは限らない。例えばそれは、場の健全さを回復する試みであったりもする(のではなかろうか)。



お笑いコンビがお互いをけなしあうというのが、同様の役目を「場」に対して果たす。お互いにけなしあえるというのは、健全な関係でなければできない(健全であるからけなしあえるのか、けなしあえることで健全であるとみなそうとするのかはともかく)。「かわいい」と言う言葉を「気軽に言える」、つまり、相手を馬鹿にしているととられかねないような言葉(あるいは、馬鹿にしている言葉)を「気軽に言える」という関係性がそこにあることの証明としての「かわいい」という発話。そういう回路もあるんじゃなかろうか。



だからそういう意味じゃ、「かわいい」という言葉は、「馬鹿」という言葉と同様の役割を果たしているかもしれない。あ、そうか。「馬鹿」は関西弁の「あほ」に比べるとキツイんだっけ(ということがよく言われるが、本当ですか?僕は中学高校と部活に入っていたのだが、先生とかOBが部員に対して愛情たっぷりに「お前ら本当にバカだな〜」と言っていて、「馬鹿」ってのは褒め言葉だな、と思っていたのですが)。それじゃ、「かわいい」は「あほ」と同様の役割ということで。






つまり「印象の良くない言葉」であることを前提とした上で、それを「そんな言葉を言い合える、良好な関係」を証明する道具として使用し、逆の価値を発生させる。そういう使用法。ただし、だからと言って、特別良い関係があるというわけでもなく、本音を言うのははばかられるからこそ、「かわいい」という安定的な言葉でお茶を濁してもいる。






……という可能性もある。もっと正直に(好意的に、馬鹿にして)使っている可能性もある。



でも、仮に「正直に使っている」としたって、そもそも人って、ある特定の人物に対して、ひたすら「馬鹿にしたり」、逆にひたすら「愛したり」するだろうか?どうも疑わしい。一人の人をある面では「馬鹿にし」別の面では「尊敬し」、そういう風にして、自我の安定をはかっていたりするんじゃなかろーか(だって尊敬しきりじゃ、嫉妬に押しつぶされてしまうもの)。ある人物を「馬鹿にする」ことと「尊敬する」ことは矛盾しない。まあ、これは僕がそうだということで、それを他人にもあてはめるのは「投影」ってやつか。そうそう。他人を「かわいい」と思うことで、自我の安定をはかろうとする僕みたいな「かわいい」人もいる。「かわいい」と言う人を多めに見てほしい。僕は他人にそんな自分を投影するので、多めに見ることができる。心が広い。



いずれにしろ「かわいい」と言われただけで、しかも相手がそれを「馬鹿にする」言葉として使っていたとしても、実際「馬鹿にされている」のかどうかは分からないし(「あほ」的用法)、「馬鹿にされている」としても、「尊敬され」たり「愛され」たりしていないとも限らない。