「かわいい」について  続き

須田さんが書きusararaさんが答えた「かわいい」についての文章について、ishさんが書いたものを読んで、気づかされたことはさまざまあるのだけど、自分の記述力の手に負えなそうなことは書かないことにする。



ただひとつだけ言えば、それと並べて僕が書いた文章を読むと、この僕の文章が前提にしているものがくっきりと見えて興味深かった。

要するに、僕は「かわいい」という言葉(やそれに類する言葉)の対象にされることで捨て置けないような葛藤を持つということのなかった人が(そしてこれからもないであろう人――僕もそれに含まれる――が)、「かわいい」という言葉に含まれる「ちょっとしたお遊び程度の」権力ゲーム的要素にどう対処したらよいかについて、ノーテンキに述べたに過ぎない。



>「かわいい」は力関係が下にあるものに対して発せられるけれども、発せられた瞬間に、別の次元での「力関係の逆転」が承認されている言葉だ。



と僕は書いたが、これはそもそも「かわいい」と言われることを、(たとえムカつく部分があるにしても)それなりに望む人が(多くの女性が?)発した場合にのみ言えることだろう。「かわいい」という価値体系に強迫的に組み込まれることと無縁な者が、しかも「かわいい」とは自分が誰かに投げかけるための言葉でしかないことが無意識的な前提になっている者が(ある種の男性が?)、善意で(あるいは悪意で)「かわいい」という言葉を他者に(特に「かわいい」という価値体系に強迫的に組み込まれ続けてきた者に)投げつけるのならば、上の図式は成り立たない。



それに僕の文章は(「かわいい」と)「言う人」と「言われる人」の個人的な関係性しか見ていない。つまり、さもそれが対等な立場におかれた個人同士のやりとりであるかのように述べている。将棋の対局に挑む個人同士のやりとりであるかのように。それも当然で、そもそも僕自身が、「かわいい」という言葉を言ったり言われたりすることが個人的なやりとり以上の意味を持つと想定していなかったし、僕の文章も僕のような人が「かわいい」と言われた場合に、どう対処するかというノウハウを多少妄想気味に述べたに過ぎないからだ。



とはいえ、僕は「かわいい」という言葉の文化的(社会的?政治的?)側面に、今回初めて気がついたというわけでもない。僕なりにそのような社会状況に対して常日ごろ思うことはあったのだが、ただ、そもそもが須田さんのつぶやきから始まった話題だったし、自分自身がこの言葉に象徴されるような社会的状況の中で葛藤した経験も希薄だったので、書いているうちに「ついうっかり」そういう方面に無頓着に、能天気な個人的ノウハウを述べるに終始し(てしまっ)たわけだ。



社会が個人に付与する属性によって人々を二分し、ある側面において一方にのみ困難を与える場合、他方はしばしばその困難に気がつかないがゆえに、その側面において双方は対等な立場に立っているかのように錯覚する。例えば「かわいい」という言葉に関して、男性よりも女性の方が葛藤に見舞われやすいが、僕のようにそれに気がつかずに、まるで互いに対等な立場でゲームに挑んでいる(「かわいい」と言い合っている)かのように錯覚することがある。



前提が違うとはこういうことか…(むろん、「前提の違い」は絶対的な壁というわけではないだろう。そもそも「前提の違い」にすべてを還元するということは、個人的な能力、想像力、体験や思考の積み重ねに、意義を認めないということだ。つまり「前提の違い」があるとはいえ、そりゃいくらなんでもノーテンキ過ぎませんか?という事態はあり得る。自分で自分を評価することはどうもアホらしく思えるので、僕の文章がどうかは言いませんが)。