「客観的に」

http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071001/1191219128

様と鳩様の口論に関して、兎様が上のように言われている。

ためになるエントリでした。僕も少し書こうと思う。

法治国家である日本で裁判によって決められた刑の執行は法に従って行われるのが本来

まったくその通りだと思う。ところで鳩山氏は死刑執行が「自動的に客観的に」進む方法を作ることを提案した。しかし「客観的」というのはどういう意味だろう。文脈から判断すれば「客観的」というのは「法相の個人的信条(心情?)」と対置させて、つまり、個人の意見ではない「多数の同意」を指し示しているように思える。多数の同意のもとにシステムを決め、そのシステムにのっとって(=公平に)自動的に死刑が執行される……という感じだろう。



しかし「客観的」という言葉には「公平中立な」とか「三者的な」というような雰囲気が漂う。つーか、本来そういう意味か。言うまでもなく、この場合「第三者」も「公平」も存在しない。なぜなら、刑罰に限らず国の法制度をどうするかは国民全体の利益にかかわる問題だからだ(「国民」の利益だけでよいのかということはひとまずおいて)。あらゆる国民は当事者だ。しかし、死刑に「積極的な法相」とか「消極的な法相」というものを想定すると、そういう個人の身勝手な(おこちゃまな)信条を超越した(大人な)「客観的な(第三者的な)」視点というのがありそうな錯覚に襲われる。それをまさか国民の目線とか言ったりはしないだろうが(誰が?)。ふうむ…裁判員制度



ここで僕は、言葉尻を捉えて鳩山氏を責めるつもりはないし、「客観的」という言葉を狩ろうとしているわけでもない。確かに「刑の執行」を「いつ」行うかという程度の話題であれば、「客観的」という言葉が使われることにそれほど違和感はない。要するに、そこに行き着くまでの間に、選挙システムの確定、選挙、国会での刑罰に関する議論、その他社会システムに関する議論、立法、実際の刑事事件についての裁判などが、しっかりと行われているはずだからだ。それらの過程から結論(死刑)を導きだすということの方がはるかに難題を抱えている。



問題は、それらの過程がしっかりと行われているのか、ということだろう。もちろん、鳩山氏の意見は「死刑執行」ということに限って言及されたものだ。「死刑執行」をどうするかと、そこまでの過程をしっかりと行わなければいけないということは別の次元の話だ。



つまり、焦点は常に、そこまでの過程にあるのが「本来」であって、そこをしっかりとクリアした法に法相の個人的な信条が介入するということは、「本来」好ましいことではないわけだ。



そういう解決すべき「本来」の問題を見極めつつ、「死刑執行」をどうするかに限定した「本来」を語る人々と、そうせずに語る人々というように大雑把に二分することも可能だろう。



ところで「考える」とさっきから言っているが、ここで僕が「考える」というのはつまり「自己相対化」をするということだ。もしくは、「自分の認識や信念に懐疑的になる」ということ。よく考えたり人の意見を聞いたりよく想像したりすることで、思い込みが解かれ、ときに考えが変わる。どこまで言っても十分ということはないだろうが、少なくとも、何もしないのとある程度することの違いはあるし、常に敏感であろうとする人とそうでない人の違いもあるだろう。つまり「自己の信念に固執する法相」とは違う「第三者的」視点を導入しようとするのと一緒だ。「自己の信念に固執する自己」を突き崩す「客観的な」視点の導入。「客観性の導入」というなら、ここが「本来」もっとも大事なところだろう。



さて、そういう「本来」大切なところはどうなっているんだろう。そういう最も大切な「客観性の導入」がないがしろにされていながら、「客観的」というような言葉が白々しくも「死刑執行」のタイミングをどうするかという話題に限定して、「説得力」を付与するために使われているんではないかと、そういう思いが沸いてくる。







「(山氏には)法相の資格もなければ、人間の資格もない」

上の亀井氏の言葉を次のように解釈してもいいかもしれない。

まず「政治家は単に国民の注文通りに仕事をこなすだけの政治職人ではなく、様々な方法で国民を啓蒙していく存在でもある」という信念を想定する。こういう信念からは次のような方法論も導かれるかもしれない。

「法相が国民を代表して死刑の執行において苦しむことは、問題を提起するひとつの方法である。その効果はさておき、しかし、政治家には使命があるのだから、安易に苦悩から逃れようとするべきではない

でまあ、最終的に次のような言葉に。

「それを言うにことかいて『法相に責任をおっかぶせる形ではなくて』とはなんだ!このクソタワケ!鳩山氏には政治家の資格はない」



これは僕自身の信念ではない。ただし、政治家が「先生」であるような日本システムの中で「政治家の自覚」みたいなものに目覚めちゃった人(安倍さんは本気でそうなろうとしたけどすべった人かな)が上のような信念を持ってしまってもおかしくはないと思うし、そうでないと立ち行かないような、そんな文化なのかもしれない、日本の文化は。