エントロピーを縮小し増大させるマックスウェルの悪魔たる人

紀元二〇〇〇年……文明国では過半数の人間がノイローゼにかかっている。職場のオートメ化はすすみ、仕事の性質は一見機能的になったように思われるが、職場や居住区での対人関係とか肉親間の感情問題などエントロピー増加を食い止められない分野が多々あって、これらが人間の神経を蝕んでいく要因になっている。精神病院は多くの患者を収容しているが、まだ運営は順調である。自殺者の数はガンの死亡者を上まわってくる。
二〇五〇年……一九七〇年頃の言葉でいうまともな人間は非常に少ない。この頃には、まともの意味(あるいはまともの内容)は大分変わってきている。街路を歩きながら突然わめきだす人、いきなり真っ裸になる若者……しかし誰も振りかえってみようとはしない。どのような人種を健常でないとして精神病院に入院させるか、現在からは一寸予測できない。
かつて社会機構の矛盾に端を発したイデオロギーの対立は、エントロピーの増加とともに二者択一から混合多様式にうすめられて混沌とし、管理者と被管理者、あるいは何らかの意味での優者と劣者などの感情的な対立のうえにほそぼそと支えられてきたが、この頃になるとそれも消滅していく。イデオロギーは終末をむかえる。

(「マックスウェルの悪魔都筑卓司



岩手県立図書館の中高生向けの本棚に並べられていた懐かしのブルーバックスから借りてきた本の一説。1970年に書かれた未来予測。当たっているか外れているかに関わらず、過去の予測というのは魅力的だ。



エントロピー」といわれても、なにそれ?であった僕だが、この本を読んで分かった(つもり)。要するに酒と水は混ざるのは容易だが、混ざったものを酒と水に分けるのは骨が折れるということ。「区別」されたものが、その「区別」された状態……秩序だった状態から離脱しようとする傾向……系の全体としてデタラメさを増す傾向……が自然にはある。全体を構成している一様な個々の要素は、しばしば秩序立てて構成されている。野球チームに「人」という一様な要素が群がり、ピッチャーとかキャッチャーとかサードとかの役割分担をするように。それら秩序立てられた個々の要素(それ自体は個性を持たない要素)が(秩序から解放されて)自分勝手に動き始めると、個々の要素がどういう状態になろうとするかの傾向は確立的に決まる。9人のうち5人はある瞬間ピッチャーになりたい気分になり、同じ瞬間に3人はショートに、一人はサードコーチャーになりたくなるかもしれない。しかしそれぞれの要素はどれも「人」という一様なモノなので、どの瞬間であっても、全体の何割がどのポジションを希望するかは、確率的に大体のところは知ることができる。このように秩序だっていたものがデタラメに動き始めるがゆえに、全体の様相が確率的に決まるようになることを「エントロピーが増大する」という。



ほんとかな。きちんと理解できているか自信がない。まあ間違っていたら間違っていたで、いずれ分かるだろう。



で、このエントロピー増大の法則(熱力学第二法則)を裏切って秩序だった状態を回復しようとするのがマックスウェルの悪魔だ。水と酒の混合液の間にしきりをもうけ、分子一個が通り抜けられるほどの穴をあける。悪魔はこの穴のふたを開閉する能力を持つ。水分子と酒分子の一つ一つがデタラメに動くがゆえに混ざったままである混合液にしきりをもうけ穴をあけ、たまたま飛んできた酒分子が右から左に行こうとしたらふたを開ける。逆に行こうとしたらふたを閉める。水分子に対しては、まったく逆の対応をする。すると、混合液は徐々に分離されていき、左は酒、右は水になる。悪魔はただ分子を見極め、ふたを開け閉めするだけ。後は分子がデタラメに暴れてくれるおかげで、混合液は分離される。エントロピーは縮小する。



人にもこの悪魔と同じような力がある。そのままでは乱雑なモノたちを整理し、加工し、意味のあるものに変えていく。人の力を超えたエネルギーを持つ仕組みを自然現象を利用して生み出す。だが、人はエントロピーを縮小させる(つまり何かを整理する)能力を持つが、社会の中に「整理されるべき何か」自体は次々と増えている。これら「物質の(新たな)整理(加工)」の結果としてのモノや情報の増大が、(人の)それらを「再整理」する能力を上まわって加速すれば、デタラメさは増す。増えすぎたモノや情報は、いずれ(すでに?)人の手に負えなくなり、エントロピー最大の状態を実現する。人はモノに支配されるようになる。



或いは、整理しきれない情報をうまく整理したように思わせてくれる言説に群がる……そっか……人には「ウソ」というエントロピーを縮小させる能力があるんだ。増えすぎたモノや情報に不安を覚え、そこから逃れるために騙されたい人が、騙してくれる人のもとに群れる(何かに騙されたくない人などいないだろう)。まあ、最初の物質からのモノの創造自体が「ウソ(=物語)」の創造と言っていいし、その創造された「ウソ」を整理する「ウソ」(宗教)が創造されることは、首尾一貫した流れの結果と言える。



系がエントロピーを縮小させるには、系の外部との交渉が必要。社会の中でエントロピーを増加させるのは、人の創造(要素を増やし)の欲求、消費(それを要素たらしめる=要素と認識する)の欲求だろう。つまり、「創造の欲求と消費の欲求の系=供給と需要の系」が外部からエネルギー(それらを整理する「言説」、或いはその「説得力」)を吸収する。そのようにして供給と需要の傾向を整理し、その代償として聖なるモノと穢れたるモノを排出する。