沢尻エリカとプロ意識

沢尻エリカという人が主演映画の舞台挨拶で無愛想だったことが、一部で(?)話題になっているらしい。沢尻エリカという名前は、普段耳をふさいで生活しているわけではないので耳にしてはいた、という程度には知っていた。長澤まさみと対置して語られる人であることも(長澤会とか沢尻会とか)、女王様と呼ばれていることも知っていた。スポーツ新聞とお近づきにならざるをえない幸運に恵まれたコンビニの深夜店員という環境は、女優やタレントの、名前と実際の姿が一致しないような者に対しても、そのテの情報を周辺視野から摂取することを可能ならしめる。



あらゆる「はみ出しもの」は、世の中がどういう場所なのかを普段と違う角度や濃度で再確認させてくれるメディアとして機能する。テリー伊藤と勝谷誠彦の意見の対立(この番組の唯一の、かつお馴染みのみどころ)などは、ありふれた現象ではあるが僕には非常に興味深い。街角の声を拾ったこのVTRにおいて、どういう方針でこれらの言葉が、放送に値するものとして製作者に選ばれているのかはよく分からないし、ここにある「こういうときの沢尻さんの顔は可愛くない」とか「プロ意識」とか「観る人がいて成り立っているんでしょう、この人達は」という意見が、世間の共感を得られるものなのか否かもよく分からない。ともあれ「はみ出しもの」は語る野次馬を生み出すし、個々の野次馬が示す反応は、彼らがどういう思想や発想に支配されているかを垣間見させてくれる。



そしてそのような一部の反応を見て、僕も僕の支配されている傾向に従って反応し、次のような物語を組み立てたりする。人々にとって「プロ意識」ってなんだ?要するに「プロ意識」ってのは、いかに世間に迎合するか、その迎合の巧みさのことじゃないか。沢尻エリカ評価する言説がしばしば焦点とするのは彼女のピエロとしての「プロ意識」だったりする。しかし彼女を批判する言説もまた、「客に失礼」という意味での「プロ意識の欠如」を取り上げる。我々を喜ばせれば「プロ」。そうでなければ「プロでない」。我々のきまぐれで理不尽な(理不尽で何が悪い、或いは、どこが理不尽?)要求に答えるのがあなたの義務だ。我々がどこまでプロに対して要求できるかの範囲も我々のきまぐれ(きまぐれで何が悪い、或いは、どこがきまぐれ?)で決まる。なにせわれわれ=お客様は神様だから。



舞台挨拶での沢尻エリカを見ていて十年位前の中田英寿を思い出した。これはちょっと的外れかな。勝谷氏は、彼女の行為を「演出されたもので、亀田と一緒」だという。テリー氏は「演技じゃない。感性だ」という。本当のところは神のみぞ知る。テリー氏の発言からは彼女をかばう意図が感じられるが、その戦術はやはり「現場を盛り上げなきゃいけない(という意識、責任感)」という「(村社会的?)プロ意識」に焦点を当てるもの。或いは、「不器用」「裏表がない」という「正直さ(or無垢さ)」だ(これも村社会では評価されるだろう)。勝谷氏の発言は「礼儀をわきまえろ」ということを強調したいように聞こえる。また彼女の行為を「演出」と断定するが、その根拠のひとつとして持ち出した「昔(の沢尻エリカ)は違った」というものは、根拠として全く不十分。ついでに言えば「普段は違う」というものも、「全ては演出」説を証拠立てない。人がいつまでも変わらぬ性質を保ち続ける保証はどこにもないし、その場の状況に応じて気分や機嫌がコロコロ変わらない保証もない(ついでに言えば、その「機嫌の変化」がその人の持つ確固たる思想から来るものでない保証もない)。さらに言えば、仮に彼女が普段「演出」として「ある態度」を取り入れているとしても、一見その態度と区別がつきにくいかもしれない「別の態度」が、「演出」ではなく現れることがあってもおかしくない。ともあれ「大人が教えるべき」という勝谷氏の発言も、やはり村社会的(まあ、国家主義者にとってはそれでなんの不都合もないのだろうが)。また、演出であることを強調するのは「正直さ」の否定を意図しているのかもしれない。或いは、イデオロギーにとらわれた者のパラノイアの現れかもしれない。陰謀説だ。「陰謀説」は「心の清らかさ」を、他人を判断する際の尺度とする人々にとって都合がよい。意図的でなければ同情の余地があり、そうでなければ遠慮なく非難できるからだ。もしくは、意図的なものを意図的でないと思っていたと後から知ると「騙された」と感じる。そのような事態を避けたいのかもしれない。だとすれば(だとしないかもしれないが)これも過剰な警戒感のなせる業と言えるだろう。



なぜ舞台挨拶でああいう受け答えがなされたのかは僕にはよく分からない。利害関係のない(スタッフでも観客でもファンでもない)僕には彼女がどういう態度を取ろうが、基本的には、知ったことではない。しかしこの一連の騒動を通して見る沢尻エリカはかなり興味深い。特に舞台挨拶より前のインタビューなども合わせて見ると一層興味がそそられる。これを見ると、そんなに頑張って「女王様」になろうとしているようにも思えない。また、こちらの映像(うーーむ、you tube)。彼女の喋る内容自体は、ありふれたものではあるし、退屈な部分もある。ただ、彼女の仕草や表情、語り方や間の取り方などは(他に類例がないと言うものでは全くないが)非常に興味深い。自分の進むべき方向性を模索するその真剣さが、周囲の雑音にわずらわされることへの過剰な防衛反応という側面を伴って、アクション(言葉、態度)として過剰に表出されているという風に見える。周囲を「理解者」と「それ以外」とに区別し、「理解者」には心を開くが、「それ以外」には警戒してかかる(こう考えると沢尻エリカと勝谷氏には共通点が見出せる)。……がゆえに、二面性が出てくる。だからと言って、それ一辺倒でもない。人が自然に持つだろう「曖昧さ」「気まぐれ」「柔軟さ」などが、彼女を原理主義から解放しているようにも見える。まあ、これも勝手な解釈だ。しかし、こういう解釈も可能だとしたら、これと相容れない解釈のもつ説得力の強さは、少なくとも排他的といえるほどではないということになる。



二つの顔を持つことは、「演出」でなくても十分ありえる。むしろ、ある種の真剣さからは、ほとんど必然的に二面性が現れると言える。以前の中田英寿もサッカーのことをよく分かっていないインタビュアーがいい加減な質問をしてくると不機嫌になっていたが、「分かる人」に対しては心を開いていたように思う。これをプロ意識の現われと解するか、プロ意識の欠如と見るか。庶民の用語法からいえば、どちらの解釈にも十分説得力はあるはずだ。要は、「プロ意識」というものをどう捉えるかの違いだろう。



(ただし、正反対の「論理的体裁をともなった」解釈がどちらも「正しい」場合、自分が「どういう態度にどういう評価をくだすか」ということに関して、誰に対しても一貫性を持つということがない人々がいる。要は、複数の人物が同様の態度を取っていたとしても、自分の好きな人に対しては肯定的な評価を、虫の好かない人には否定的な評価を、どちらの場合にも「論理的な体裁をともなって」都合よくくだすのだ。ただの「好き嫌い」が論理的な体裁をともなうことで説得力を持ってしまうことに無自覚な社会は恐ろしい)