理想と現実

「本物の右翼」は、国旗や国歌を強制したりしないし、「本物の右翼」はヤクザ右翼を嫌っているのだそうだ。





yahoo!掲示板で「野村秋介経団連襲撃、河野邸焼き討ちは死者を出さないよう注意深く行なわれた暴力」というような言いで「本物の右翼」を擁護しつつ、そう教えてくれた人がいた。






森達也森巣博共著の「ご臨終メディア」の中で、森達也は以下のように書いている(P.69)。

数年前、右翼の大物と一晩酒を飲んだことがあります。彼らは決して、今の日本のこの世相を大歓迎しているわけじゃないんです。たとえば「新しい歴史教科書をつくる会」に対して、「あれは民族主義じゃなくて全体主義だ」と言っていました。




「(本物の?)民族主義」や「本物の右翼」が、全体主義につながらないとしたら、つまり、暴力的な統制・排除を旨としないなら、それは一体どういうものなのか、私にはよく分からないのだが、ともあれそれは全体主義じゃないらしい。



例えば、鈴木邦男のような「右翼」もいる。



http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/shuchou001.html


 教育現場への押し付けは絶対によくない。もし本当に君が代が必要だと思うなら、まず国会で歌うとか、公務員が率先して歌うべきじゃないですか。高校生までは校歌と校旗で十分です。「二十歳になったら初めて歌う」ぐらいでいい。

 国の歌や旗なんだから、少なくとも国家を代表する大会や集会だけで使えばいいんです。乱用せずに、もっと大切にすべきじゃないんですか。

 「反対するやつは命をかけて殺してでも」なんて、僕も昔だったらそう思うかもしれないけど、日本の歴史で国旗や国歌が出てきてからまだ百数十年。明治維新で西欧の影響を受けてからです。「極右」の人なら、西欧をまねて作った国歌や国旗なんて捨てて「本来の日本に戻れ」と主張してもいい。



「右」も「左」も結局は全体主義に行き着く、なんて意見もあって実にその通りだなと思うが、しかしそこで「いや、『本物』は違うんじゃねーの?」と「本物の右翼」のように主張してみたくもなる。





理想としては全体主義なんて望んじゃいない。
でも油断するとすぐ全体主義になる。




これは宗教も一緒だろう。




いや、「油断する」だけじゃなく、へたに(或いは、性急に)「理想」に燃えてしまってもやっぱり暴力的な統制・排除は起こるだろう。
「右」も「左」も宗教も同じだ。




だがここで言う「理想に燃え」た末の行為が、本当の意味で理想を追求した結果なのかと言えば、必ずしもそうではない。
むしろ、現実主義に走った結果と言う方が正しい。



要するに、理想を追求しようと思えば、どうしても矛盾が生じる(例えば、自由と平等、自由と平和みたいな)。
そこで「現実的な対処」と称して、実現するべきことに優先順位をつける。
そして「平等」だとか(表面上の)「平和」だとかを実現しようとして、「自由」はこの際犠牲にしようと決めてしまう。



理想を言えば、平和で平等で自由なのがいい。
だけどそれは無理だから「自由」には犠牲になってもらう。
一端そうと決めたら、あとは遠慮なく「自由」を犠牲にしていく。