教育基本法「改正」反対――国家に指導されることによって、無知のまま放置されたくない私


annntonioさんのブログの提案(http://d.hatena.ne.jp/annntonio/20061105/1162719485)に、僕も微力ながら参加させていただこうと思います。



それにしても…

http://xxxkaiakuxxx.ring.hatena.ne.jp/bbs/11


↑こんなものが作れるのか…。
Hatenaやるなあ。



そこで見つけた以下の記事。
実に巧みに、下からの全体主義化の方法論について指摘している。
獏と感じていたことに明確に輪郭を与えてもらった感じ。


http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20061102/p1


時の政府にしてみれば、あからさまに強権的な方法(だけ)で少数派の活動を取り締まるより、人の心理に根ざした「自然な力」を利用する方が、安全で(結果として)効率的に自分たちの思う「理想」の状態を実現できる。


「自然な力」の第一は、人々の「無知」。第二は、法的正当性を利用した(ゆえに「強権的」という表現があてはまらなくなる)政府の有形無形の指導に対する(そこでは予算配分や人員配置の権限も利用されるだろう)、公的施設の側の受容。つまり権力関係のなかで孤立化した人の生存本能だ。


たまにインテリ批判の文脈で「庶民のことは庶民の方が知っている」というようなことが言われるが、実際にはそんなことはない。隣の住民のことすらきちんと把握していないのが、人の現実だろう。庶民のことを知らないのはインテリも庶民も同じはずだ。


「様々な面で不利な立場に置かれている人々がいる」というそのこと自体は知っていても、その「不利さ」の内実を知らないということが、私にはよくある。多分、他の人にも多かれ少なかれあるだろう。私のようなモノグサな人間が他者の内実を知るとき、偶然に頼る部分は非常に大きい。つまり、kmizusawaさんのリアルなおとぎ話の中でも、「偏った内容」が許されなくなることが懸念されている図書館や講演会、展覧会という場や、例えば、それらのちらしであっても、ふと目の端に止まるという効果に負うところが大なのだ。


「偏った」催し物や蔵書や、それらの「お知らせ」が「目につくようにさりげなく」(矛盾している?)置かれていることによって、結果的に私は決定的な無知から、わずかなりとも救われている。実に他力本願な生き方だが、多かれ少なかれ人は他力本願なものだし、他力本願な生き方をしていた人が、いつしか自分から他人に語りかける立場に(ときには自発的に、そして多くは偶然に)なることだってある。そういう細々とした伝言ゲームだって、世の中の空気を作り上げる一つのツールになっているはずだ。


本当は今よりももっと少数派の意見が大々的に取り上げられるような社会であるべきなのに、「良からぬ意見は“社会教育の場”にはふさわしくない」というような体制が築かれ、恣意的に少数派の意見がさらなる周縁に追いやられることで、それが今よりも後退させられてしまうのではたまらない。