美の創造、偽造

やっとこさプロバイダーに料金支払ってブログ再開。



「物語」に抗いたい。



「美しさ」を実現する方法はいくつかある。例えば先ごろ引退を撤回し、2007年の世界水泳での現役復帰を表明したフランスのシンクロナイズドスイミング選手ヴィルジニー・デデューの演技の美しさは、修行のたまものと言えるかもしれない。むろん、生まれ持った能力もあるだろう(「そもそも容姿が美しい」かどうかは、演技の美しさとは関係ないと仮定して、この際、置いておく)。



ところでデデューはユーミンと競演するらしい…。

http://www.shangrila3.com/

うーーーむ…。ユーミンって何やっている人なんだ、一体?



もう一つは、「醜い」部分を隠すという方法がある。もちろん「醜くない」=「美しい」では必ずしもないので、これだけでは美しさを実現することにはならない場合が多いのだが、少なくとも醜さを排除することによって美しさが保たれるように思われることはよくある。十分条件ではないが必要条件ではある、というわけだ。例えば、アイドルの某について「彼(女)は排便しない」という「ファン心理」を茶化した小話がある(ところでこのようなナイーヴなファン心理は、今この時代にも生き残っているのだろうか?)。



あるモノを「美しい」と感じる人と感じない人がいる。この状態では――つまりそれらの人々が混在している状況では――、そのモノは必ずしも美しいとは言えない。だが、美しいと感じる人だけを一同に集めて、彼らにそのモノを提示する。そのような状況下では、そのモノは「美しい」ということになるかもしれない。皆が美しいと感じるのだから美しいに決まっている、というわけだ。これも一つの「美しさ」の実現の方法であろう。つげ義春の「無能の人」には石を愛でる人々が登場するが、多くの人には大したことのないただの石でも好事家の集まる場所に持っていけば「美しい」ということになる。



 つまり「美」の創造の手段は、「修行」「隠蔽」「場の選択(創造)」などなどある。



…で、何が言いたかったんだろ?うまく書けない。