ブックオフの面接


去年、ブックオフのアルバイトの面接を受けた。
面接担当者は副店長で、僕と同い年くらいだった(と本人が言っていた)。どうやら、面接が始まってからすぐに見切りをつけられたらしく、あまり面接らしいやりとりはなく、途中から彼自身の仕事観についての演説が始まった
例えば、ブックオフで働くのに本が好きである必要はないとか、どんな仕事であっても楽しくこなすことは可能だとか、日本に生まれたからには一生懸命働くことに喜びを見出そうと思っているとか。
これらは、最初のやりとりでの私の次のような発言内容に、それぞれ対応している。読書が好きだ、好きな職業にはつけなかったとしても少なくとも全く不毛に感じられる仕事でない仕事をしたい、出来れば残業が少なく決められた時間働けばよい仕事をしたい(これは以前の仕事を辞めたこととブックオフでアルバイトをしようと思ったことを説明するものだ。本心でもあるが)。




どうにも奇妙な面接だった。面接担当者が採用する前にこちらの仕事観を知りたいというなら、そんなものはあまり語りたいとも思わないが、一応、理にかなってはいる。しかし面接担当者自身の人生観が面接において語られることに、合理性はあるだろうか?彼自身の個人的な欲望、願望、葛藤のようなものが作用していたように思えてならないが、どうなんだろう。うんざりさせられはしたが、興味深い人物でもあった。




十代後半から二十代前半にかけてよく遊んでいた友達のことを思い出した。彼はことあるごとに、僕にレッテルを貼ってきた。例えば、僕がジミヘンに惚れこんでいて、そのルーツであるアメリカのブルースが好きだと言えば、「アメリカかぶれ」というレッテルを貼る。この程度のくだらないことが多いのだが、あまりにそれが頻繁だったので、僕もうんざりしていた。彼のレッテル貼りには、一定の法則性があったように思う。僕に貼られるレッテルは、「大衆性」「安易さ」「粗雑さ」「愚かさ」を暗に示すものだった。まあ、そういうイメージで他人を平板に塗装することこそが、レッテルを貼るそもそもの目的なのだろうが。

他者に対するレッテル貼りの最終目的は、自己肯定だ。要するに他者を「安易な」「粗雑な」「愚かな」何者かとして語り、自分はそうでないことを示すことで、自己の「思慮深さ」「繊細さ」「賢明さ」を暗示し、或いは、証明しようとする。

僕の友達にしても、「アメリカかぶれ」という僕に対するレッテル貼りは、常に「俺はそうじゃない」というアピールと一体になっていた。結局、目の前に「大衆的で安易な」人物を置くことで、「少数派で思慮深い」自己を際立たせ、そのようにして自己を肯定していたのではないだろうか。




僕はその友達に数年間そのように接され、随分と嫌な思いを味わったのだが、しかし不思議なのは、なぜ僕はそういう友達に見切りをつけなかったのかということだ。見切りをつけた方が良かったのかどうかは別にして。そもそも友達が少なかったというのもあるだろうが……。当時は心の中があまりにごちゃごちゃしていたし、それを把握しうる(した気になれる)概念を操ることにあまりに稚拙だった。今となっては随分とぼやけてしまった部分もあって、そのころの自分の行動原理が一体どういうものだったのかは、僕には分からない。それに、その友達と楽しく過ごした時間も随分あった気がするし、依存していた部分も少なくなかったと思う。僕自身の自我も不安定でひ弱だったのだ。