高野文子「玄関」

高野文子の短編マンガ「玄関」に以下のようなシーンがある。



えみことしょうこという小学生くらいの女の子が二人で、柿の種とソーダを飲みながら会話している。
えみこは、どちらかというと、内面の動きが制御されて外部に表出されるような女の子。自己の「内部」と「外部への表出回路」の間の乖離との付き合い方を探っているような子。どこかボーっとしている。
しょうこは、健康で、活動的で、「教えたい」女の子(夏休みにえみこの家を訪ねてくるなり「ほらみてー むらさきのハンカチ 家のあさがおでそめたのー きれいだろー えみこもすれば? あさがおまだある あげるよ」なんてしょうこに話しかけたりする。えみこは畳の上で寝そべり午睡の名残を惜しむように半ば目を閉じたまま、「ふーん まああがってよ」と気のない風に答える)。



かきのたね」の食べ方をめぐる二人の会話は以下のように始まる。
しょうこ「えみこ かきのタネっていうのはさぁ かきのタネ3つとピーナッツ1つの割合で (ここでしょうこは「がばっ」と手のひらのかきのタネを口に放り込む) 同時に食べるのが一番おいしいと思うん えみこいくつの割合?」
えみこ「いくつでもいいじゃんそんなの 数えてないよ(えみこもかきのタネを持った指を口に運ぶ)」



次の瞬間、しょうこがえみこを指差し叫ぶ。
しょうこ「あーっ!いまっ! ピーナッツを2個いっしょに食べたっ! どうしてーっ!? どうりでさっきからピーナッツの減りが早いと思ったあっ」
えみこ「だってピーナッツ好きだもん」
しょうこ「わたし、いっしょうけんめい ピーナッツとかきのタネの数 調節しながら食べてたのよ どういう割合で食べたらピーナッツとかきのタネが両方いっしょに同時になくなるか! もともとピーナッツが少ないんだから ほら こうやってわざわざ2つに割ってつりあいとりながら食べてたのにいっ!」



最初「美食の知恵」について語っていたしょうこは、一転、「『ピーナッツとかきのタネが同時になくなること』に奉仕することの正しさ」に基づいた糾弾を始めた。
この二つの主張は別々の次元に属し、一見、互いに関係が無いが、しかしどうもしょうこの内部では、この二つの感覚(「かき3、ピー1がおいしい」と「同時に無くなるよう、つりあいを取るのが正しい」)は、つながっているのではないかと疑ってしまう。



つまり「かき3、ピー1」という割合は、しょうこの内部で、もともと「おいしい」割合ではなく、「正しい」割合だったのではないか、という疑い。
マンガの中では、「正しい」割合について、しょうこは語らない。もしかしたらしょうこは「かき2、ピー1」こそが「正しい」割合と見極め、ゆえに「美味しい」割合は放棄して、「正しい」割合を泣く泣く選択しながら食べているのかもしれない。かもしれないが、とりあえず、上のように疑ってみたい。



私にも同じような経験がある。「正しさ」がいつの間にか「おいしさ」に化けているという経験。「正しさ」には説得力がある。しかし「美しさ」にも説得力がある。また、これら二つの説得力の内実は違う。語弊はあるが、「正しさ」は「利他」の原理として、「おいしさ」は「利己」の原理として、機能する(説得力を持つ)のではないか。

ハードボイルドの「名言」風に言えば、「おいしくなければ食べられない。正しくなければ食べる資格がない」。



「正しさ」は尊敬され、「おいしさ」は愛される。
(むろん、「正しさ」も愛されるし、「おいしさ」も尊敬されはするが)

ただ、「正しい」ことは確かに説得力を持つのだが、「いい人」は必ずしも恋愛の対象にはならない、という神話世界に生きる者にとっては、「正しさ」だけでは少し物足りない。やはり「おいしく」なければならない。「正しさ」だけを追求することは、避けるべきだ。しかし、だからと言って、「おいしさ」を追求し「正しさ」を放棄するわけにもいかない。「正しく」かつ「おいしい」方法を探し当てられれば良いが、それができない場合、どうしたら良いのか。二兎を得ることをあきらめるか、「私は二兎を得る方法を探り当てた」と事実を歪曲するかのどちらかだ。かきのタネの場合、歪曲は容易いかもしれない。「おいしい」「まずい」なんて、絶対的な基準が存在するわけでもないのだから。「おいしい」と思いこんでみれば、本当に「おいしく」なったりするし、そもそも「おいしさ」ってのは純粋に味覚の問題でもない。



「おいしさ」を語る行為は、ひそかに「正しさ」による脅迫を含んでいたりする。



えみこの目の前でなされる、えみこのお母さんとしょうこの会話。
お母さん「しょうこちゃん 夏休み帳終わった?」
しょうこ「うん おばさん、わたし 夏休み帳は7月中にぜんぶやったの」
お母さん「そう そうよねえ 早く終われば早く遊べるもんねえ えみこもねえ しょうこちゃんみたいに好ききらい言わずになんでもたくさん食べれば もう少し いせいよくなるのにねえ」



「早く終われば早く遊べる」という言わずもがなの「おいしさ」がわざわざ聞こえよがしに確認された目的はなんだったのか。