プナン・バにおける説明の手口の一例


障害と文化 (明石ライブラリー)

プナン・バにとって人間の出生は一面において生理学的なプロセスであり、また一面において霊的なプロセスである。胎児は、男性の「液体」であるileangから創られたものであり、身体あるいは形状を与えられたものである。ileangは、男性の血管の中を血液のように流れ、性交において精液のように射出される。女性の子宮は巣となり、胎児はそこで月経の血で栄養をとり成長する。
(中略)
損傷の身体的形状は、以上に述べた人間の妊娠についての、および妊娠における男女の役割についての彼らの理解に則して説明される。先天的な身体障害に対する責任を負うのは、主に、子どもの創造者たる父親である。それに対し母親の行動は、分娩と生後の子どもの運命に影響する。例外は盲であり、母親のせいにされる。もし彼女が、妊娠中に夫あるいは他の男性と性交をすれば、その子どもの両眼は損なわれ、プナン・バの言葉では「男の剣で突き刺された」と言われる。しかしながら、子どもの先天的な障害について、当該の男性あるいは女性が必ず非難の対象となるわけではない。彼らが非難されるか否かは、周囲の人々の意見を形作っている社会的要因の複雑な組み合わせによるのである。これらは、家族間の社会的競争と密接に関わっている。その競争とは、地位、あるいは「興味ある出来事(news)」としばしば言われるものを巡る競争である。例えば、ある若い男性は、彼の第一子に麻痺があることの責任を、彼の姻戚から負わされた。この損傷は、当初その子どもの頸が座らないことにより明らかとなり、父親が非難の対象となった。それは、母親の妊娠中に、父親がカメをその頭部から切り落として殺したからであった。彼の義理の両親とそのきょうだいたちは、この不幸な出来事を繰り返し述べ立てたが、その際彼らは、自分たちがこの若い夫婦、特に夫の生活を耐えがたくしていることを十分承知していた。問題となっているのは、子どもの損傷ではなかった。この男性に非難を浴びせることは、彼らの娘、すなわち当該の妻に、彼と離婚させるためのありとあらゆる努力の一部であった。義理の両親とそのきょうだいたちは、彼の社会的出自や経済力、ふるまい全体に不満であったのである。

(「障害と文化」ベネディクト・イングスタッド、スーザン・レイノルズ・ホワイト編著 中村満紀男、山口惠里子監訳   第二章「人であるものと人でないもの」アイダ・ニコライセン著  より    太字強調は、itumadetabeteruの仕業)





宗教はときに利己的な目的のために利用される。




林芙美子の小説「折れ蘆」の中には以下のような場面がある(太字強調は、itumadetabeteru)。

――夏になった或る日、私の家には兵隊が四人分宿する事になつた。明日出征して行く兵隊の為に、私達の町内では、兵隊に宿を割り当てられた。甲府の兵隊であつた。もう、兵隊としては相当の年配のものたちばかりで、軍服も粗末なものであつた。その中の一人に、三十二三の小柄な兵隊がゐた。かなり図々しい男であつたが、四人のうち、その男だけが、すばしこく食べものなぞを取り計つてゐた。夜になつて、何処から持つて来たのか、濁酒を一升工面して来て、その兵隊は母に大豆を煎つてさかなに出させた。汗と革臭さが、弟の或る時の体臭を思ひ出させる。暗幕をめぐらした、暗い部屋は、むし暑くて、兵隊はみな半裸の姿で酒を飲んでゐた。四人の兵隊は、何処へ旅立つてゆくのかは、判つていない様子である。明日は夜明の四時に本門寺に集合して、トラックで、何処かの駅へ運ばれるところまでは判つてゐた。兵隊はみな世帯持ちで、相当荒んでもゐた。時々、無気味にブザが鳴る以外は、この裸の兵隊をおびやかすものはない。九時頃、それぞれごろ寝を始めてゐたが、私は、家の中のむし暑さに閉口して、冷たい壕舎に寝に行つたが、蚊がうるさくてなかなか寝つかれなかつた。私は団扇でものうく蚊をはらひながら、暗い壕のなかに横になつてゐた。うとうとしかけた時であつた。私は胸を押される重量を感じて眼をさました。いつかの東村山での同じむしかへしが始つた。「お国の為だ、我慢して下さい。私は死にゝゆく身分なンだからね……」私を押しつけた男はそんな事をさゝやいた。私はをかしくてたまらなかつた。あの小柄な兵隊に間違ひはなかつた。母屋でブザが不気味に鳴つてゐる。
翌る朝、私が壕の中で眼を覚ました時には、もう四人の兵隊は出発してゐた。私は母には黙つてゐた。母は大変な兵隊だつたとこぼしてゐた。家にある食物は、あらかた四人のものに平らげられてしまつてゐたから。私は一日二階で眠つてゐた。躯がだるくて、あの時と同じ虚脱感で私は呆んやり寝転んでゐた。その日は、疎開の荷物をつくらなければならなかつたのだが、私は荷物をつくる元気もなかつた。私は自分自身が荒んでゐることを知つた。何がお国の為なのだらう。あのやうな兵隊は勝手に死ねばいゝのだ。戦争は人間を利用してゐる。人間も戦争を利用してゐるのだ。みんな戦争の為に醜い人間になり果てゝゐる。私の町内は兵隊が去つて森閑としてゐたが、若い娘や人妻のゐる家は、昨夜の喜劇が何気なく吹き荒れていつたと私はうたぐつてゐた。数々のお国の為がくり返へされてゐたに違ひない。私達の町内は、ほとんど男のゐない家庭が多かつた。或る家では、屋根の雨もりを兵隊に修繕して貰つたとよろこんでゐた細君もあつた。私も、昨日のうちに、あの四人の兵隊に疎開の荷物を造らせるべきだつたと、母と笑ひながら話した。この戦争は一つづつ私に貴重な経験を積ましてくれた。男女の制約は、滑稽な一事である。何も尊敬した異性でなくてもよいのだ。尊敬した異性を選ぶ女の心理は一種の見栄から来てゐるものなのであらう。男が、どんな行きずりの女にも心が動くとすれば、私は心は動かなかつたが、行きずりの男に抵抗はしなかつた。要点だけの問題である。ハートはお互ひに必要ではなかつた。猿であつた。そして、その猿の一事は、おそろしく生真面目で、お国の為と云ふ理由がついてゐる。あの兵隊はもうすつかり、昨夜の事は忘れ去つて、上官の前に愛国の兵隊として、不動の姿勢をとつてゐるのかも知れない。時代の谷間のなかには、凄薄なうそ寒い風の吹いてゐる隙間があるものだ。私たちは、その風のなかに吹き荒れてゐる弱い生き物に過ぎない。その風にはどうしても抵抗する事の出来ない、宿命のやうなものがそなはつてゐるものだ。翳がゆらめく。その翳は、とらへる事の出来ない運命的なものだ。私は冷く自分を見つめる事が馬鹿々々しくなつてきた。不用意に包丁で切つた傷が、また何時ともなくもとどほりになつてゆく自然さで、私はこの経験を忘れ去らうとした。


「お国のため」であれ、「素朴な」自然宗教であれ、「〜べき」という道徳的な言いは、都合よく使われ得る。
「私」や「あなた」よりも、「崇高な」存在や理念に、判断をゆだねることに懐疑的でないことは、恐ろしい(懐疑的であればよいということでもないが)。しかし「〜べき」を利用する人間が「懐疑的でない」がゆえに「〜べき」を無意識的に利用するということを想定して、恐ろしいと言うのではない。多くの人びとが「懐疑的でない」ことにより、「〜べき」を利用する一部の人の用いるレトリックの「都合の良さ」に気がつかないことで、その一部の人の暴走を許してしまう ことが恐ろしいのだ。しかも、そのレトリックの犠牲になるのがマイノリティである場合、直接被害を受けるわけでもないマジョリティはますます無関心になるだろう。

でも、たぶんそのような(責任転嫁の、あるいは私利追求のための道具としての)「崇高な存在」に身を任せることが(そのようにして思考停止することが)気持ちの良い人たちもいるのだろう。