一神教とか多神教とか

一神教」とか「多神教」という言葉が、非常に素朴で庶民的な「日本論」や「日本人論」にまぎれて聞こえていた。曰く、一神教は排他的で争いが絶えない。多神教である日本(や東洋)のあり方は寛容で、優れている」
しかし、こう単純な構図で説明されてしまうと、どうも怪しく思えてくる。いや、単純な構図うんぬんよりも、その裏にちらほら見える我田引水の意図。単に「日本」を持ち上げたい心理が、持ち上げることを可能にする理由を必要としていて、「一神教」「多神教」という概念が(現実と乖離して)その欲望を満たす道具として、すっぽりと収まってしまっただけではないか、という疑いが頭をもたげてくる。
もちろん、そういう怪しげな考え方に反論している人びとがいることも知っていたが、具体的にどういう議論がそこにあるのかは良く知らなかった。



この間、図書館の新書コーナーを覗いていたら、島田裕巳著「日本人の神はどこにいるか」という本が置いてあって、僕は島田さんについては「オウム関連で色々書いていた人」という非常に漠然とした理解しかなかったのだが、どうやら「一神教」と「多神教」について、「排他的な一神教、寛容な多神教」という見方に疑問を呈すると同時に、一神教の中にある多神教性や、多神教の中にある一神教ということについて論じた本のようであったので、興味を持ち借りてみた。

日本人の神はどこにいるか (ちくま新書)

日本人の神はどこにいるか (ちくま新書)

その中で島田さんは、ルーマニア生まれの宗教学者エリアーデとともに、「ひまな神」や「宇宙的宗教」という言葉を紹介している。
キリスト教の神学は、聖書の記述やキリスト自身の存在やキリストと神との関係性にまつわる矛盾を、どう合理的に説明するかについて、神学者や宗教家が延々と議論をしていく過程で発展したものだそうだ(と僕は理解した)。ところが、そんな神学者たちの苦労などおかまいなしに、人びとは独自の信仰を作り上げていく。「宇宙的宗教」とは、そのような下々の者の信仰のことで、つまり、神学者たちが綿密に議論し、神学的なレベルで組み上げられる宗教に対置する概念だそうだ。



つまり、聖書とか経典のレベルで語られるキリスト教や仏教に対し、民衆レベルでは、宇宙的キリスト教や宇宙的仏教、宇宙的イスラームや宇宙的神道というものが存在する。そして、宇宙的宗教性は、「人類全体に普遍的な現象」なんだそうだ。



で、その宇宙的キリスト教の一例として「クリスマス」が紹介されていた。

ヨーロッパでは、キリスト教が浸透する以前に、民間の土着の信仰として、春の訪れによって、太陽がよみがえることを期待する祭が冬至の日に行われていた。初期のキリスト教徒たちは、この冬至の祭をキリスト生誕と重ねあわせた。だからこそクリスマスは、年も押し迫った暮れに祝われるのである(古野清人「クリスマス」『万有百科事典』4、小学館)。

(P.98)

そもそもキリストの生まれた日を記す歴史的な史料は存在しないんだそうだ。

エリアーデは、宇宙的宗教と農耕文化との密接な関係を指摘している。農耕文化においては、宇宙が周期的に更新されるという考え方が生まれた。それは、農耕の対象となる植物が毎年、生と死のサイクルをくり返すからである。植物と同様に、人間を含む動物も、より長いスパンでは生と死をくり返す。その考え方はさらに宇宙全体にまでおし広げられ、宇宙もまた毎年、周期的に更新されなければならないと考えられた。

(P.85)
そんなわけで、作物が再生する春に始まり冬に終わる一年という「周期」を更新するためのクリスマスを祝うことは、農耕文化に普遍の宇宙的宗教性の現われであり、日本人にとってもなんら不自然なことはないのだそうだ。実際、日本人にとって、クリスマスは「正月のための予祝儀礼としての性格」を持っていて、これがもし四月とかだったら、今日のようなクリスマスの習慣も生まれなかったのではないか、と島田さんは言う。



ヨーロッパのキリスト教においては、聖者崇拝が信仰の重要な核になっている。ところが、これは「神」以外のものを崇める偶像崇拝であるとして、キリスト教の内部にも批判があるのだそうだ。
「神」が絶対視され、超越的な存在になると、神は現実との接点を失ってしまう。人はそのような神とどうかかわっていいのかが分からなくなる。そのような状態をエリアーデは「ひまな神」と言ったのだそうだ。ところが人は、現実的な生活を救済する存在を求める。聖者崇拝は、そのような事情のもとに生まれる。
「ひまな神」となり、なんにもしなくなった神よりも、奇跡を起こし人々を救ってくれる聖者の方がありがたい。

しかし、神以外に、聖者や聖母マリアを崇拝するというあり方は、多神教的だ。一神教の神は、結局のところ「ひまな神」とならざるをえず、多神教的な要素を取り入れないことには一神教は維持されない。一神教などと言ってみても、それは神学レベルの話であって、民衆レベル、つまり宇宙的宗教においては、それは多神教的であらざるをえない……のだそうだ。



(つづく)