一神教とか多神教とか(つづき)

わたしたちは、一神教多神教との対立という図式を乗り越えるために、「一神教多神教モデル」を提唱する必要がある。一神教多神教は密接不可分の関係にある。どちらか片方では、宗教生活は成り立たない。一神教多神教は一つのセットを構成している。そのセットをさして、とりあえず一神教多神教モデルとよびたいと思う。

(P.132)



多神教的と言われる日本ではどうか。

島田さんは民俗学者の原田敏明の説に言及する。
そこでは、「村」という共同体と、そこで機能している「氏神」や「氏子」について、以下のように説明されるそうだ。

  • 村では、聖と俗が分かれていない。日常生活がそのまま神を祀る生活になっている。島田さんに言わせると、これはイスラームにおいて、信仰と生活が一体となっているのに似ている。
  • 村において氏子(村人)が氏神を祀るということは、氏子が氏神に選ばれた神聖な存在であることを意味する。村におけるよそ者に対する排他的な姿勢は、その裏返し。
  • 水田農耕は、たんなる生産行為ではなく、神聖な性格をもつ神への奉仕行為である。

こうした特徴をもつ村という共同体で祀られる神、つまり氏神は、村という宇宙を支配する絶対の神であり、至上の唯一の神であるということになる。氏神の社や宮は、いかなる偶像も有してはいない。むしろ氏神は、一神教における神のように、偶像崇拝を拒むというのである(『日本の意識』岩波書店)。

(P.169)



それから、明治神宮に初詣で訪れる三百万人の客のうち、明治神宮の祭神が明治天皇夫妻であることを知っている人はどれくらいいるのか、と言う。ほとんどの客にとっては、祭神が何であるかは重要ではない。川崎大師に行こうが明治神宮に行こうがかわりがないだろう、と。

要するに、そこで新年の平安を祈るとき、人びとの頭の中に浮かんでいるのは、明治天皇夫妻や弘法大師という具体的な存在ではなく、より抽象的な存在ではないか。その抽象的な存在は、一神教における「神」と呼ばれるものと、別なものと言えるのか






そう言われると、なるほどと思ってしまう。
結局、建前として一神教であっても実際には多神教的になるし、同様に、建前として「様々な神」の名前を具体的に言及していたとしても、祈る人びとは必ずしもそれを意識せず、抽象的な存在に対して祈ったりする。

宗教的指導層が教義や外形をどのように作っていたとしても、実際に信者がそれ通りに信仰するわけではない。



あらゆる宗教を、島田さんの言う「一神教多神教モデル」として、ひとくくりに考えてしまうことが適切なのかどうかはよく分からないが、少なくともある宗教は「一神教」で別のある宗教は「多神教」であるとはっきりと言えるようなものではないらしい。