愛と正義

東京大学出版会の出している「UP」(University Press)という小さな雑誌があって、本屋のカウンターの隅に無料配布の冊子として置かれていた。


UP9月号に、市野川容孝氏の「障害学の試みと私」という文章が載っている。

「障害者」を巡っての、日本の運動の流れの一側面が描かれていて、ここら辺に疎かった僕にはおおいに参考になった。




この文章中に以下のような部分があった。
問題があるかもしれないが、文章全体の流れを無視して取り上げる。


1970年五月に、重い脳性マヒの子どもを二人持つ母親が、そのうちの下の子ども(当時二歳)を絞殺した事件があった。その後、障害をもつ子どもの親たちを中心に、母親の減刑嘆願運動がなされ、これは「世間の少なからぬ同情を集めた」らしいのだが、それに対して、脳性マヒの人たちの団体である「青い芝」は、批判を向けた。

人びとは親に同情するけれども、私たち障害者はどうなっているのか。そもそも社会は、私たち障害者に人間の尊厳と生きる権利を認めているのか。いや、それらが否定されているから、このような減刑嘆願が肯定されるのではないか、と。

(この部分に関しては、参照項として、安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学(増補改訂版)』藤原書店があげられている)



最近、(老人も含めた)「介護」とか「子どもの養育」とかについて政府の役割を縮小させることを主張する人々の言説において、「家族の責任(義務)」がやたらと強調されるのをよく耳にするのであえて書くけれど、青い芝の批判は、市野川氏の文章から伺える限りでは、親に留まらず、という以上に、社会全体に焦点があてられている(ように思える・・・ここら辺はきちんと調べてから書いた方が良かったかな…)。



続けて、次のように続く。

青い芝のこの批判は、少なくとも二つのことを世に問うた。一つは、障害者の生きる権利そのものを、最初から考え直し、肯定し直さなければならないということ。もう一つは、その障害者の生きる権利を保障する上で、家族という「愛」の空間は必ずしも頼りにならず、むしろ危ういものであること。「われらは愛と正義を否定する。われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する」――この事件がおきた七〇年に発表された青い芝の「綱領」の一節である。

「愛」や「正義」というきれいごとは、人に対する抑圧、強制、暴力を正当化する方便として用いられるだろう。または、それらの言葉(概念)を安易に用いることで、自らや他人の陥る欺瞞に気がつかなくなるかもしれない。そういう平和ボケな状況に対する告発。



この出来事が示す「家族への依存の否定」と、同じ年に、東京都の府中療育センターで起こった障害者によるハンストが示す「施設の否定」という二つの否定の延長線上に、「自立生活運動」があったそうだ。



しかし、この「自立生活運動」には、行政の支援が欠かせない。それなのに、この「自立」という言葉のもつポジティブな響きを利用して、行政が必要な支援まで減らしているのが昨今の状況ではないのか。



ただ、そもそも介助が、行政の支援による「有償の介助」であるべきなのか、無報酬(ボランティア)の介助であるべきなのかについては、障害をもつ人びとの間でも意見が分かれているらしい。しかし、そのことと、行政による支援が(一方的に)減らされてよいかどうかは、同次元で語られるべきではないだろう。





日本脳性マヒ者協会 全国青い芝の会 行動網領
http://shoufukumemo.com/ryouiku/kai_aoishibanokai.htm