憲法制定権力と憲法

美濃部は、憲法以前の権限・権能を想定することがない。あくまで憲法の内側から天皇を含めた諸機関の権限を記述する。見詰めたときに見詰め返す深淵は、美濃部の著作には感じられない。ごく普通の実定法学のようである。憲法の文面から沸き起こりかねない魔は、美濃部の憲法学では完璧に調伏されている。天皇制論者であるか否かにかかわらず、ウルトラ・ナショナリストにとっては承服しがたいであろう。
怪力乱神を語らぬこうした美濃部の姿勢は、戦後の憲法学には必ずしも受け継がれていない。主権者たる国民が日本国憲法を制定したというテーゼは、憲法以前の憲法制定権力を有する国民なるものの存在を想定している。国民主権なる概念は、政治家は国政の動向について国民に説明すべきだし、非があれば責任をとって辞めるべきだという以上のことを意味しているといわれる。国民自身が国政について直接決定すべきだし(国民親裁)、主権者たる国民の意思を根拠に憲法典に反する行動も正当化されると示唆されることさえある。国民こそが始原的権力を手にしており、いざとなればいつでも全権限を回収しうるのであれば、硬性の憲法典があるといっても頼りにはならない。真正の憲法制定権力が常駐するとき、真正の憲法はない。真正の憲法を手にするためには、憲法制定権力にはご退場いただく必要がある。
とはいえ、こうした指摘をする議論が人気を博することはないであろう。それは、国民を主権者とする憲法の文字面に反するばかりか、万能の主権者たる国民を単なる一機関、それも数年おきに国政に参画しうるだけの一機関に貶める不敬謀反の説として非難されるに違いない。

(「UP」(東京大学出版会)9月号 長谷部恭男「国民を使用人扱いするのか?」)



う〜〜〜ん、そうか…。
民主主義って怖いなーとは思っていたが、「不敬罪」ねえ。



地球上の生命が宇宙の中で孤立している(要するに、地球外に生命体が見つからない)ように、人や社会は、「真理」とか「正しさ」において、孤立し、漂っているというわけですな。頼るべきものがない。誰も「真理」を示してくれない。



なんとなく思うのは、憲法はたぶん会話する相手なんだろう、ということ。自分の過去の影。歴史がそうであるように。つまり、自ら(=国民?「ひとびと」?)の過去の宣言。なんであんなことを言ってしまったのか、昔の俺は、と過去の日記を見ながら思うように、憲法を眺める。そのサブテキストとして「歴史」がある。もちろん、「歴史」は、人と同じく流動的なので、歴史自体の過去の影も眺める。というわけで、史学史。それなら「史学史」史も必要とか言うとキリがないので言わない。



そんなわけで、「真正な憲法」と「真正な憲法制定権力」という、火花散らす二大番長の間に割って入る、幼馴染の「過去の俺」。まあ、「過去の俺」も時によってグレていたり、罪の意識にさいなまされていたり、色々だからな…。仲裁役としては、ちょいと頼りない。「科学技術」というトリックスターにも、割って入ってもらいましょうか。「経済学的知見」という知恵者の力も借りつつ。意外と彼らの仲裁で、ケンカが収まったり未然に防げたりしているんじゃないだろうか。



様々な力が少しずつ様々な方法で、状況を良くする(楽観的かな)。



ただ問題は、様々な力に養分を与えているのは、結局は「真正な憲法制定権力」であるってことだろう。自力で生きているのは「真正な憲法制定権力」だけであり、その他はおままごとのお人形に過ぎない。でも、なぜわざわざそんなことをして、自分以外に力を持ったものを空想しようとするのか。もちろん、絶対的な力を持つことはつまらないことだからだ。自分が(少なくとも部分的に)逆らえない対象(=他人、神)とどれだけの交流があるか(量、質両面で)は、豊かさの実感に大きく関わってくるからだ、たぶん。



そんなわけで、「真正な憲法制定権力」は孤独な宇宙のただなかで夢想する。さまざまなケンカ相手、友達、仲裁役、トリックスターファムファタルを創造(想像)する。仮に「真正な憲法制定権力」が、孤独な一人遊びの産物であるそれらに養分を与えリアリティを付与し、バランスをとって自らを平和的に統御しうるとしたら、それは、「真正な憲法制定権力」自身に、うまいこと養分が行き渡っているからに違いない。



ひとたび何かの偶然でその養分が(決定的に)絶たれたりすれば、それに(「決定的」な度合いに)応じ、「真正な憲法制定権力」は、暴走する。血の通ったおままごとの人形(憲法、歴史、などなど)は、ただの汚い布と詰め物の固まりへと失墜する。



孤独なんだねー。可哀相にねー。(他人事じゃありません)