経済的な知識以前の意味理解の間違いによる妙な経済的言説の流布

ホリエモンとリーマン破綻 −市場原理主義は間違っているのか?


別にこの人個人をことさらに批判してもあまり意味はないのだけど…。
 
ただ、こういう単なる「言葉の使い方の間違い」による勘違いというのは、世の中にはよく見られる現象だと思うので、その点、この記事は一つの典型例として面白い。



僕は経済にはまったく詳しくない。
それでもこの記事のおかしさはわかる。
それはこの記事のおかしさが経済的知識の間違いからくるのではなく、単に「日本語の理解の仕方の間違い」に負っているからだ。

これは資本主義の失敗なのでしょうか?

そんなことはありません。
これこそが資本主義経済の浄化作用なのです。
世界中から借金をして途方もないレバレッジをかけて世界の金融市場で大博打を打っていた投資銀行は淘汰されたのです。
これは市場原理が突きつけたひとつの答えなのです。


いわゆる「資本主義の失敗」という表現が使われるときに、それが何をしめしているのかは、場合によりけりだろう。けれども、この人が槍玉にあげているものに限っていえば、おそらくそれは「資本主義が正常に機能した場合に起こる悲劇」について言っているのだろう。
 
つまり「世界の金融市場で大博打を打っていた投資銀行」が「淘汰」された際に、その影響が「まともな経営をしている多くの企業」にまでおよび、その経営を危うくすること、そのことを「資本主義の失敗」と言うわけだ。
 
つまり、この記事のおかしさは、「資本主義が正常に機能した場合に起こる悲劇」をさして「資本主義の失敗」と言っている新聞の論調を、「資本主義が正常に機能していない」という意味で「資本主義の失敗」と言っていると受け取っているところにある。

明らかに「経済的な知識の不足」による間違いではなく、「意味を読み取り方を間違えたこと」による間違いだ。








もう一つ間違えている部分がある。

発行済み株式数を10倍にすれば、株価は10分の1になる。
当時はこんな当たり前のことが分かっていない人たちがたくさんデイトレードをしていました。
まさに、日本の株式市場は市場原理がぜんぜん働かないところだったのです。
ホリエモン株式分割を繰り返し、株価をどんどん上げました。
資本主義がしっかりと機能していれば、こんなことはありえません。

本当かな、と思います。
以下のページを参照してみます。

株式分割って何?】

以前、とくに2004年ですね。
このころは株式分割で株価が急激に上昇するということが頻繁に起きました。
原因はこうです。
株式分割をするときに、増える株(子株)は一定期間売買することができなかった。そうなると売り手のほうが少なくなるわけだから、買い手のほうが強くなって急激に株価を押し上げるような事態がおきる。」

こういうことが頻繁に起きていて、株式分割=株価上昇という意味のわからない考えが広まっていたんです。

現在は分割後にすぐに売れるようになったのでそういう事はなくなりました。
ルールのゆがみが株式分割=株価上昇という幻想を生み出していたわけです。

ここでは、「ルールのゆがみが株式分割=株価上昇という幻想を生み出していた」し、実際に「上昇するということが頻繁に起き」ていた、と書かれています。僕もネットで調べた限りですが、この点を指摘している記事は結構見つかります。「発行済み株式数を10倍にすれば、株価は10分の1になる」という「当たり前のことが分かっていない人たちがたくさんデイトレード」をしていたからだという仮説には、ほとんど説得力がありません。



ただし、よりひどいのは、妙な仮説を提示したことよりも、これをもって「日本の株式市場は市場原理がぜんぜん働かないところだった」と言っていることです。これは明らかに「ルールの未整備」をさして言っているのではありません。「人々に知識がない」ことをさして「市場原理が働いていない」と言っているのです。次の部分にもそれは現われています。

・・・こんなことが可能だったのは、市場原理主義が行き過ぎたからと言うのとが正反対で、市場原理主義の初歩の初歩も理解されておらず、ぜんぜん資本主義が機能していなかったからなのです。

「資本主義が機能する」ことは「資本主義に参加する人々の認識」に依存するのでしょうか?それだったらなぜ、リーマンの経営のあやうさを理解できなかった人々の認識の間違いは、「資本主義が機能していない」ことの証拠にならないのでしょう。



でも、この手のおかしな議論って、本当によく見かけるんですよね。「経済的な知識の不足による間違い」ではなく「言葉の使い方のおかしさからくる間違い」。で、そういう人たちが「マスコミの知識を鵜呑みにするな」みたいに言ったりする。誰かが間違っていたとしても、それはそれを批判する別の誰かが正しいってことではまったくないのだけど。



ある種の「マスコミ批判」には、「大衆批判」みたいな心性が隠されているように思えます。「学校では教えない歴史」という発想にも同様の意識が見え隠れしているように思えます。「こういうことが信じられているけれども、本当は」という発想。



昔から「孤高のヒーロー」ってのは大人気ですね。愚かな大多数に対する賢い少数でありたいという願望の伝統。こういう願望は非常に大衆的なものであって、要するに「粗悪なポピュリズム」を槍玉にあげる手法は、ポピュリズムの典型的な手法だという話。上野千鶴子さんが紀伊国屋書店の広報誌「scripta」第7号(2008年spring)に『女のミソジニーミソジニーの女』という記事を書いていて、その中で次のように書いている。

女がミソジニーを自己嫌悪として経験しないですむ方法がある。それは自分を女の「例外」として扱い、自分以外の女を「他者化」することで、ミソジニーを転嫁することである。

これは何も「女」に限らない。自分の嫌悪すべき部分を他者に投影するというのは、人類普遍の方法論なのだろう。