詩と散文について

id:usauraraさんの詩と散文について三分でを読み、さらにid:cloud_leafさんの詩と散文を読んで、面白そうなので僕も思うところをちょこっと書いてみます。



いろいろ考えたんですけどね、「詩は記述不可能なものであり、散文は記述されたものである。しかし、記述不可能なものはすべて詩ではないし、記述されたものがすべて散文ではない」とか。でも、わけわかんなくなってやめました。



或いは、詩と散文をそれぞれ政治的な運動ととらえ、「詩」とは「強度な現実」をあらわにしようとする運動であり(シュルレアリスム)、「散文」とは「現実について、よく語られること」を再確認する運動、そのように「現実」を歪曲しようとする運動である、現実にフタをする運動である、とか。こういう風にとらえると、「散文」というのは「身も蓋もない」ことが特徴であり、「〜である」「〜でしかない」という志向を持つ。「詩」は逆に「〜ではない」という志向を持つ。



でもこれは「芸術」についてよく言われることでもあります。「既成の概念を破壊しようとするもの」みたいなこと。
うん、そうか。
メロディとかリズムとか音で構成された「芸術」が音楽で、言葉によって構築された「芸術」が詩で、画面に引かれた線や色で構成された「芸術」が絵画で……、で要するに散文ってのは「芸術」的でないもののことか。



しかしですよ。じゃあデュシャンの「泉」はいったいなんなんでしょうね。便器なんて思いっきり「散文的な」ものを持ってきて、しかしそれが同時に「芸術」=「詩」として現前してしまう。これは、芸術の(詩の)自己破壊的な側面を物語っています。つまり芸術は「現実」なるもののアンチテーゼであると同時に、芸術のアンチテーゼでもある。



そういう風に考えると「詩と散文」という区分は、そのように区分すること自体が優れて政治的な行為なのかもしれません。或いは「詩」とは「散文」という仮想敵の上に始めて成り立つものと言ってもいいかも。おそらく「芸術を欲する僕ら」にとって脅威とは現実ではない。そうではなく、「僕らを縛るもの」こそが脅威なのだろう。だから僕らを解放するものが欲しい。それこそが芸術である。ただし、それらは本当に僕らを解放しているのか?もしかしたら僕らは解放されたという実感を得るために、縛られているものを特定する(実感する)必要があるのかもしれない。何に縛られているかが特定されれば、「縛られているもの」を安定して得られれば、僕らを解放するものも僕らは安定的に得られる。だがしかし、それら僕らが実感する「僕らを縛るもの」は、本当に僕らを縛っているものではない。本当に僕らを縛っているものからは僕らは逃れようがない。つまり、「僕らを解放するもの」は、実際にはありえない。だから、その本当に僕らを縛っているものとは別の比較的容易に逃れられる「僕らを縛っているもの」を仮想的に特定する。それこそが僕らを縛っているものだと思い込む。そのことによって、僕らは「解放」されることが可能になる。少なくとも「解放された」と実感することが可能になる。



「詩」とか「芸術」というのは、一種のゲームであり、それは「束縛と解放」のドラマなのではないでしょうか。それを可能にするのが「散文」という仮想敵なわけです。



でも、仮想敵だからといって嫌うというわけではないでしょう。だって、それがなければ「詩」は成り立たないのだから。「詩と散文」は、往復運動を可能にする。「詩」と「散文」の間を僕らは行ったり来たりする。そのことによって、僕らは自由を確認する。不自由な何かと不自由な何かの間の往復運動こそが自由なのではないか。





……どうも、うまくまとまりませんでした。






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追記:

「言葉によって構築された「芸術」が詩」というのは、つまりその……、例えば「小説」という概念は、これはその表現の形態(登場人物や舞台があり、それが明確に示され、時間経過があり、何事かが起こるという形態)を表しているのに対して「詩」とは形態を特定しない、むしろある理念を示す概念であるという意味がこめられています。そういう意味でなんらかの形態を特定しない「芸術」という理念的運動を指し示す言葉足りえると。だから小説の中には「詩的な」描写も「散文的な」描写もありえる。このように「散文」を「詩」というものと対置する言葉ととらえるなら「小説」は「散文」ではない。しかし「散文」をそのようにはとらえず(つまり、理念的な運動ではなく)外面的な形態としてとらえるなら(例えば、「説明的な記述である」とか)、小説は「散文」であると言いうる。「散文」という言葉には、このような二重性があって、「詩と散文」という区分で考えると、そこら辺でどうもややこしくなるような気がします。