2008年10月29日 『マニ教とゾロアスター教』


さらっと読んで、知った気になれる山川出版の世界史リブレットがお気に入り。
マニ教ゾロアスター教』を読んだ。宗教は割りと好きなテーマ。

マニ教とゾロアスター教 (世界史リブレット)

マニ教とゾロアスター教 (世界史リブレット)

マニ教の特徴は折衷主義的なところだそうだ。さまざまな宗教や神話のごった煮状態。
二元論だが、それはゾロアスター教の二元論とは違う。マニ教の場合は、世界は光と闇という二つの原理から成り立っていて、光は霊的なもの、闇は物質的なもの。だから当然、人の肉体という物質的なものも闇であって、結果、現世否定に至る。このあたり仏教の影響が感じられると著者は書いている。
 
ゾロアスター教
それに対してゾロアスター教の二元論は、この世のありとあらゆるものは善と悪に属し、現世はこの二つの原理の相争う場であるそうな。善とは生命であり光であり、創造主アフラ・マズダーである。悪とは死であり、闇である。だから死は忌み嫌われる。死体にふれることもタブーだった。ところで、この善と悪の争いが生まれたところの説明が面白い。

ゾロアスターの説くところでは、もともと二つの対立する原理が存在したのだという。二つは完全に対立するので、その間に優劣や強弱の差はない。それはあたかも双子のようなものだと彼は述べた。両者はまったく無関係に存在していたが、たまたま遭遇してたがいに相手の存在に気づいたとき、対立が生じた。一方の霊は善であったので生命を選んだ。他方は悪で非生命(つまり死)を選んだ。
(P.14)

両者はまったく無関係に存在していたが、たまたま遭遇して対立が生じたっていうのが、どこかのんきでいい。争う運命にあった、とかじゃないわけだ。たまたま遭遇しなければ対立も存在しなかったのかな。二つは完全に対立する「ので」優劣がない、という論理の立て方も面白い。飛躍があるようにも見えるが、優劣は共通の地盤に立って始めて言えるので「完全に対立」している場合は、優劣は言えない、というようなことを前提にしている、テツガク的な主張にも聞こえる(でもそもそも「対立」とか「争い」がありえるためには共通の地盤が必要なんじゃないの?と思ったりもするけど、まあ、そこら辺は著者の書き方かもしれない)。
ただ、この創造主アフラ・マズダーがずるいというか抜け目がないというか。

叡智の主アフラ・マズダーは先見の明によって、対立する二霊は戦わざるをえないことを知った。その場合、戦う場と武器と主体が必要になるし、戦ったあとには勝敗が決まる。したがって、戦いを始めるにあたって、究極的に自らの勝利となるときを期限とすることができれば、自分が勝利して終わることは間違いがない。そこでアフラ・マズダーは、自分が勝利するときを終着のときとするという条件で戦おうと提案した。死と破壊の霊は、結果をみとおすことがないので、ただ戦うチャンスにとびつき、この提案は同意された。
(P.14〜15)

明らかにアフラ・マズダーはずるい。当時のイランでは、公平であることよりも賢いことの方が価値があったのかな?
しかし、両者が対立した(戦い始めた)理由がよく分からない。それについてまったく説明がないならともかく「(両者は)戦わざるをえないことを知った」(仕方ないから?)とか「(死と破壊の霊は)戦うチャンスにとびつき」(戦いたいから?)などと、ほのめかされている。で、死と破壊の霊が好戦的なのは分かった。でも、アフラ・マズダーの方はどうなんだろう?やはり好戦的なんだろうか?それとも「仕方なく」戦うのだろうか?少なくとも現代の社会では、「正義」は必ず「仕方なく」戦う。そうでなきゃ「正義」になれない。
かくして、アフラ・マズダーによって「争いの場」として世界が創造され、そこに悪の霊が侵入して破壊をもたらした。植物は枯れ、人間や動物は死ぬ。その反撃として、善の勢力は死んだものから種をとりだして、さらに多くの生命をもたらした。人間は、善い心、善い言葉、善い行いの三徳を守り、善の側に立って戦いに参加する。最後には救世主があらわれ、悪は滅ぼされ、その後は完全な世界が永遠に続く。
分かりやすい。
 
預言者ゾロアスターが活躍したのは紀元前1200年ごろと言われている。ゾロアスター教は、イラン人の移住とともに次第にイラン全土に広まり、アケメネス朝ペルシアがオリエント世界を統一した前六世紀にはイラン人の宗教として確立していたそうだ。拝火教という別名にふさわしい「火の寺院」が建立されるようになったのもこのころのことで、メソポタミアイラク)でさかんだった偶像崇拝や壮麗な寺院建立の慣習を取り入れた結果だ(しかしヘレニズム的な偶像崇拝の慣習は6世紀ごろには再び見られなくなった)。
アケメネス朝ペルシアがマケドニアアレクサンドロスに前330年に滅ぼされた結果、イランにヘレニズム(ギリシア)文化がもたらされたが、征服した側のギリシア人はみずからの信仰を強制することはなかった。さらにその後はイラン東北部出身の遊牧民族パルティア人がイランを再統合する。これがアルサケス朝ペルシア。この帝国は地方分権制で、やはり各地の独自性には介入しないというポリシーであった。また、ゾロアスター教徒が自らの世界観を述べる際に、ギリシアの神々の形容詞を流用したり、ヘレニズム哲学の思考法や用語を使うこともあった。このころの人々には、固有の宗教や伝統、文化に執着するという習慣はなかったらしい。しかしこのような状況でイラン人の間でゾロアスター教などの自分たちの文化を守ろうとするラニズムの傾向が見られるようになったとも書かれているが、ここら辺の事情についてはこの本ではよく分からない。
そのようななか、3世紀ごろイラン西南部に出てきたサーサーン朝は、自らの正統性を主張するために「アケメネス朝はイランの伝統からはずれた正当でない王朝である」と主張した。その結果、(正統性の根幹である)ゾロアスター教アレクサンドロスの征服の際に滅び、サーサーン朝によって復興したのだと信じられるようになった。
うーーん。どっかで聞いたような話だな。

 
マニ教
マニ教の開祖マーニーの父親はアルサケス王族出身で、母親も王家につながる家の出とされる(つまりゾロアスター教の伝統を持つ人たち)。マーニーが生まれたのは216年で、4歳のとき父パテーグが酒、肉、女を断てという声を聴き、家族ともどもグノーシス主義のグループにはいった。バビロニア(現在のイラク南部)で生まれ育ったので、ユダヤ教的教養にも触れることができた。12歳のときにマーニーのもとに精霊が訪れ、新しい信仰への自覚を持つにいたる(若い…)。24歳のときに再び精霊が訪れて彼に伝道を命じたので、まず両親を改宗させ(!)、インドへ向かった。このとき仏教やヒンドゥー教の知識を得たのだろう、と著者は書いている。このインド遠征で仏教徒であったバルーチスタンの王を改宗させたそうな。
バビロニアに戻った彼は、サーサーン朝の王宮にまねかれ自らの思想を書いた書物を王に差し出した。「予言者が自ら教義書を書いたのは、史上彼がはじめてであろう」(P.27〜28)(それだけでなく、マーニーは教団の形成も自ら行った)。マーニーは絵師であり医者でもあった。サーサーン朝の二代目シャープフル一世はマーニーを寵愛したが、これは王が彼の医師としての能力を買い、その思想を危険視しなかったからで、新宗教の教祖としての影響力はさほどでもなく、王の身内や貴族が何人か帰依した程度だった。
王の死後、マニ教やそのほかの宗教の拡大を憂慮していたゾロアスター教の祭祀長キルデールは、王朝の後継者争いを期に発言力を増大させ、異端(キリスト教ユダヤ教、仏教、マニ教)の弾圧に乗り出した。もともとはあらゆる人々に開放された普遍宗教であったゾロアスター教は、このころ改宗を受け入れず、伝道活動もしないイランの民族宗教になっていたので、改宗をせまるキリスト教マニ教は脅威だったのだ。
 
マーニーの宇宙観というのが複雑でおもしろい。最初にズルワーン(単に時をあらわす普通名詞)という「偉大な父」がいて、「闇の王子」の攻撃を予測したズルワーンが「生命の母」を呼び出し、この「生命の母」が最初の人である「原人オフルミズドアフラ・マズダー)」を呼び出した(マニ教では性的関係に対するタブーから「産む」というとき「呼び出す」という言葉を使う)。オフルミズドは戦いに敗れ闇に呑み込まれる。これが第一の創造の物語。オフルミズドが助けを求めたのに応じるためにズルワーンは第二の創造を始める。まず「光の友」が呼び出され、ついで「偉大な建設者」が、救い出したオフルミズドを住まわせるための「新しい天国」を作るために呼び出される。その後「生ける霊(太陽神たるミフルヤズド)」が呼び出され、「生ける霊」は右手を伸ばし、闇に横たわるオフルミズドを引き上げ、新しい天国に連れて行く。
オフルミズドはこうして救われるが、彼とともに囚われの身となった光の元素は小さく砕け散って、多数の闇の眷属に呑み込まれている。これを救うために「生ける霊」と五人の息子たちは大戦争を起こす。このとき倒された闇の悪魔たちの死体から現世界がつくられる。その他の闇のアルコーン(位の高い悪魔)たちは鎖で空につなぎとめられた。救い出された光の元素のうちまだ汚されていないものから太陽と月がつくられ、少し汚されたものから星がつくられた。しかし約3分の1の光の元素は救い出されずに残った。
この残された光の要素を救い出すために宇宙には動きが与えられ、第三の創造がおこなわれた。ズルワーンはまず「第三の使者」を呼び出した(第三の創造では、このほかに「光の乙女」、「輝くエス」、「偉大な心」、「公正な正義」が呼び出された)。「第三の使者」は輝くばかりに美しく、その使命は男女の闇の「アルコーン」を誘惑して(「光の乙女」や、輝く肢体の若者の姿になって)彼らが呑み込んでいる光の元素を吐き出させることにある。男の「アルコーン」が欲情して放出した精液の一部が水に落ち、巨大な海の怪物となるが、これは「生ける霊」の五人の息子の一人「光のアダマス」に倒される。残りの部分は大地に落ちて植物になった。女の「アルコーン」は地獄で胎み、流産して大地に五種の動物(二本足のもの、四本足のもの、飛ぶもの、泳ぐもの、這うもの)をつくる。

闇の側では、せっかく虜にした光の元素を取り戻されないように「物質」が「肉欲」の姿をとって、すべての男の悪魔を呑み込んで一つの大悪魔をつくり、同様に女の悪魔たちも一つの大女魔となった。その両者によって、あこがれの的である「第三の使者」に似せてアダムイヴがつくられた。そのかたちをつくった物質には光の元素が呑み込まれている。したがってアダムは闇の創造物でありながら、大量の光の要素をもっていることになる。・・・・・・このアダムに・・・・・・「第三の使者」の化身である「イエス」が送られ、アダムにグノーシス(知識)を与えて覚醒させる。覚醒したアダムは・・・・・・物質の連鎖を断ち切ろうと禁欲を誓う。しかしアダムより少ないにしろ、やはり光の本質をもつイヴは、グノーシスを与えられなかったので、その理由を理解できず、「アルコーン」と交わってカインとアベルを産む。嫉妬にかられたアダムは、自らを抑えきれずイヴと交わり、セトが生まれた。かくして、人間の生命の営みが始まったという。
(P.35〜36)

というわけで、物質的な(闇の支配下にある)この世界では、グノーシスをえた人びとによる戦いが続いている。いずれ最終戦争がおき、イエスが判事としてあらわれる。天地は崩れ落ち、物質的なものは消滅する。マニ教徒の使命とはすなわち、グノーシスを得て現世の救済に貢献することである。
 
マニ教の本拠地はバビロンだったがマニ教がめざましい発展をとげたのはシリアやエジプトなどの地中海沿岸地方だった。ローマ帝国では、その版図の大部分にマニ教が広まり、キリスト教を国教としなかったらマニ教が国教となっただろうといわれるほどだったそうだ。キリスト教化されたヨーロッパでもマニ教的二元論は連綿と生き残り続ける。アウグスティヌスカルタゴで初期のマニ教と出会い、無頼の生活から抜け出す。当時のカルタゴアレクサンドリアでは宗教間の公開討論が一種の娯楽になっていて、キリスト教マニ教の対決はとくに人気があった。アウグスティヌスもこれにひきつけられたが、キリスト教の司教アンブロシウスに出会い、論争よりも真の救いが重要だと気づき、改宗する。かえってマニ教に敵愾心を燃やすようになったアウグスティヌスマニ教の欠陥を述べ立てたが、これが西欧におけるマニ教観に多大な影響を与えた。
 
750年にウマイヤ朝を倒したアッバース朝イスラームのカリフ位を獲得し、その首都がバビロンに移される。三代目カリフのときにマニ教徒の弾圧が起こり、結局、十世紀ごろにはマニ教は中東世界から消滅する。七世紀後半から8世紀前半にかけて唐に伝わったマニ教は、安禄山の乱(758年)の鎮圧に貢献したウイグルの後ろ盾もあり、中国全土に広まった。

マニ教の教義はすでに各地で仏教や、ゾロアスター教キリスト教の教義との混淆を深めていたが、この時期になると、さらに中国独自の宗教である道教の教義とも同一化されるようになった。マーニーは道教の始祖老子の生まれ変わりとみなされたりした
(P.71)

しかし、ウイグル王が死ぬとウイグルに対する反感がマニ教寺院に向けられ、各地で破壊活動が起きた。福建の泉州に逃れたマニ教徒はこの地で秘密結社のような組織になったという。

マニ教経典は、一見仏教の典籍の一つのようにされ、一部のマニ教徒は道教の一派のように振舞っていたこともある。キリスト教の一派とみなされたことも多く、マルコ・ポーロ泉州であったと述べている「キリスト教徒」はじつはマニ教徒だったといわれる。
(P.72)

結局、中国のマニ教徒は十五世紀くらいには姿を消し、これによってマニ教は事実上消滅した。