イコノロジーとイコノグラフィー   「空気を読め」

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

パノフスキーの『イコノロジー研究』(ちくま学芸文庫)を読み始めたので、ちょとメモ。
 
本書の序論では、本論の中で美術作品の「主題・意味」を論じるにあたって採用されている区分けが紹介されている。それは次のようなものである。

1.「第一段階的・自然的意味」・・・
これはさらに、「事実的意味」と「表現的意味」に区分けされる。
街である知人が帽子をとって私に挨拶したのを目撃する。そのとき、私の視覚には単なる光学的な変化が捉えられるだけだが、私はそこから「あの人だ」とか「帽子をとった」という非常に素朴なレベルの「意味」を読み取る。これを「事実的意味」と呼ぶ。絵画においては、素朴なオブジェクトのレベルで何が描かれているかの段階。
また、その知人の行為の様子から、その知人がどのような感情を抱いているのかを、例えば機嫌がよいのか悪いのかを私は感じ取る。このように感じ取られた意味を「表現的意味」と呼ぶ。絵画においては、描かれた人物の表情が悲しげだとか、建物が荘厳だとか、そういう段階。
「第一段階的・自然的意味」はイコノグラフィー以前の段階、ティーの段階とされる。

2.「第二段階的・伝習的意味」・・・
視覚に捉えられた光学的変化から「(素朴な)事物」を認識したり、そこになんらかの「感覚」を覚えたりするだけでなく、私はそこから「知人が挨拶をしている」という意味をも読み取るだろう。これを「第二段階的・伝習的意味」と呼ぶ。このような意味を読み取るためには、それが挨拶であるという共通認識がある西洋世界の習慣をあらかじめ知っている必要がある。絵画においては、一定の配置と一定の姿勢で晩餐の食卓についている一群の人々が「最後の晩餐」を表現していることを読み取る段階。これがイコノグラフィーの段階。

3.「内的意味・内容」・・・
私は、視覚に捉えられた光学的変化から、上記の二つの段階よりも、さらに高度な意味も読み取る。例えば、知人が挨拶することやその仕方は、その知人の親しみやすい性格や礼儀正しさを物語っているかもしれない。また、例え「第二段階的・伝習的意味」に属する「(西洋における)挨拶」という意味合いが明らかだとしても、それが現代の日本においてなされたなら(現代の西洋でも?)、彼の行為は一風変わった行為として受け止められるだろう。また例えば、彼がその行為をどういう目的で行ったか(例えば、「おどけて」とか「大真面目に」とか)という点も彼のパーソナリティを判断する材料となるだろうし、その行為はなんらかの形で彼の現在の気分も暗示する。このような読み取りは、単に彼の「帽子をとって挨拶する」という行為だけからなされるのではなく、彼の細部の仕草ひとつひとつから、或いは、彼が身をおいているあらゆる文脈――時代・国民性・階級・知的伝統――との関連において、統合的になされる。このような統合的に読み取られたものを「内的意味・内容」と呼ぶ。絵画に関して言えば、この読み取りは画家の傾向・趣味・信条や立場、属した時代や国の流行などあらゆる要素を統合して行われる。これがイコノロジーの段階。
 
そして、正しいイコノグラフィー上の分析をするにはモティーフの正しい理解が必要不可欠であり、正しいイコノロジー上の解釈をするには、正しいイコノグラフィー上の分析が不可欠である、とパノフスキーは言う。
 
 
ある絵が描かれた当時の社会状況や暗黙の共通前提が、今ではすっかり消えうせてしまったぐらいに、十分古い時代に描かれた絵画に関して言えば、そこに描かれているモティーフや、そのイコノグラフィー上の意味は、それほど簡単には、判明しない場合もある。パノフスキーは、絵画に描かれたモティーフについて知るには「様式(スタイル)」の歴史を洞察せねばならず、イコノグラフィー上の分析をするには「「テーマ・概念」が変化する歴史的状況下で「対象・出来事」によって表現される方式、つまり「類型(タイプ)」の歴史を洞察」(P.51)せねばならない、と言う。
 
しかし、ある表現されたものが何をあらわしているかを知るには、その表現がどのような様式や類型の文脈におかれているかを知らなくてはいけないというのは、何も昔の絵を見る場合に限らない。「萌え」文化における表現について読み解くのだって、そこにある独自の様式や類型(の歴史)について知る必要があるだろう。
 
 
 
 
唐突だが、僕は今まで「空気を読む」というのは、単に「文脈的に意味を読む」くらいのことだろうと考えていたのだが、パノフスキーの本を読んでいて、もうちょっと違う視点から考えて見る必要もありそうだと思った(パノフスキーの論とはあまり関係がないのだが)。例えば、「街で出会った知人が帽子をとってこちらに挨拶をする」という行為の意味を読み取ることについて、「空気を読め」というような要求、もしくは責めがなされることはない。それが「挨拶」であることは、ある人々にとってはあまりに当たり前のことだし、またそれが分からないからには、それだけの理由があるのであって、それを責めることに生産性はないと判断されるからだ。そこではあらかじめ「われわれ」と「彼ら」が区別され、意味を読み取れないのはその人が「彼ら」に属するから、という判断がなされる。それに対して「空気を読め」というのは、「われわれ」の内部に意味が読めない者がいることがあらかじめ想定されていることについて「意味を読め」と言っているわけだ。
 
「空気を読め」という責めがどういう生産性をもたらすのかはよく分からない。実際に空気を読むように躾けることによって「われわれ」の「良好な」雰囲気を保つためだろうか。あるいは、「空気を読めない」人物をさらすことによって優越感に浸るためだろうか。どちらであれ問題はあるのだが、しかし、後者である場合、これは「空気を読めと言うこと」が目的化しているわけで、つまり、その目的に応じて「われわれ」の内部に、空気を読めない人物が生まれる事態を現出させるために、なんらかの表現の様式や類型が発明されたり、過剰に使用されたりするということすら起こりかねない。例えば、業界用語は、常に過剰に使用、或いは披露されるきらいがあるように僕には思える。また、もともとどこにもなかった「お国の伝統」なるものが創造される過程でも、そういう欲望なり力学が作用しているのかもしれない。
 
「空気を読めない」者をさらすような風潮だけでも十分おぞましいが、そういう状況がわざわざ発明されるような風潮はさらに恐ろしい。しかし、さらにその奥には、そのような発明を要請する歪んだ社会構造があるようにも思える。内藤朝雄さんの『いじめの社会理論』を思い出した。せまい檻の中に閉じ込められて、理不尽な共同生活を押し付けられる子供たちの話だ。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

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