体験の絶対化 「他人には分からない」

震災の痛み ――兎美味し 蚊の山

usauraraさんの記事がとても興味深かった。

「あの地震経験したやろ、どんな思い?それと同じや。あんなん経験したもんでないとわからん。
せやからあの人ら(ユダヤ)の気持ちは僕やアンタにはわからんのや。」

usauraraさんが再現している「イスラエルの攻撃の正当性について講釈を始めるおじさん」の言葉。usauraraさんの言うとおり、「同じ地震を経験してもそれをどう自分の中に取り込むかはそれぞれ」だ。
 
「体験」や「共感」をめぐる人間的な政治的駆け引き(おじさんに政治的駆け引きをしているという明確な意識があるかどうかはまた別。政治的駆け引きなんてほとんど無意識的になされるものだから)。
 
usauraraさんとおじさんは、「震災の体験」において共感可能な部分を持つだろう(という言い方も大雑把すぎるけれど)。しかし、一方でその共感可能な体験から、共感不可能な結論をそれぞれに持つに至った。で、おじさんの言う(イスラエルユダヤ人の?)「気持ち」なるものは、一体どういう段階の「気持ち」のことを言っているのだろう。多くのイスラエルユダヤ人同士も(パレスチナ人の自爆攻撃やハマスの砲撃を受けたことで?)共感可能な部分を持つだろう。しかし、同時に共感不可能な結論を持つことだってありうるし、現に持っている。この結論はおじさんの言う「気持ち」のうちに入らないのだろうか?これだって明らかに「体験者の気持ち」じゃないか。
 
「体験者」の「気持ち」という権力装置。
 
もちろん「体験者の気持ちったって人それぞれじゃん(だから考えても仕方がない)」というようなことは言うつもりはない。だが「体験者」の「気持ち」なるものは、常に政治的に利用される。しかし、体験者の間に気持ちの齟齬があることは、同じ震災体験者であるusauraraさんがおじさんの言葉への不快感を表明したことからも、明らかだ。
 
ある種の「暴力」を「体験談」によって正当化しようとする政治的駆け引きは、例のホームレス問題でも見られたものだ。
http://d.hatena.ne.jp/itumadetabeteru/20080918
 
 
 

さらに少し思ったことを箇条書きで。

  1. おじさんは「(イスラエルユダヤ人の)気持ちは分からない」と言いつつ、実は(イスラエルユダヤ人に、他人に分からない「恐るべき体験」をしたものとして)共感を示しているのではないか。
  2. おじさんはユダヤ人の気持ちが分からないことには気が付いているのに、なぜか(同じ震災体験者としての)usauraraさんとの間の気持ちの通じ合わなさには気が付いていない。「気持ち」を根拠に政治的意見を述べる人が、他者の「気持ち」に敏感かというと決してそうではないことの実例。そういう人は誰かの気持ちに敏感であると同時に、別の誰かの気持ちにえらく鈍感であったりする。或いは、ある人のある種の気持ちにはえらく敏感なのに、同じ人の別の気持ちにはえらく鈍感だったりする(こういうところからも、僕は「情緒的に語る人⇔論理的に語る人」みたいな対比において、「情緒的に語る人」が「人の気持ちを大切にする人」みたいに認識されることが、気に入らない)。