『テロ死/戦争死』の委託配本拒否について。

テロ死/戦争死

テロ死/戦争死

 
 
『六日間』(ハリーム・バラカート著 奴田原睦明訳 初版1980年)という本を読んだ。
六日間 (1980年) (パレスチナ選書)

六日間 (1980年) (パレスチナ選書)

版元である第三書館ってどんな出版社なのだろうと思って検索していたら、気になる記事が。
 
第三書館VSトーハン  ウラゲツ☆ブログ
 
第三書館から出ている『テロ死/戦争死』(第三書館編集部:編 初版2005年11月)が、新刊当時、取次各社から委託配本を拒否されたとのこと。知らなかった。この記事で興味深かったのは、以下の記述。

私はこの写真集の中味を見たわけではないので、本についての感想は書きませんが、取次各社が「拒否」した経過は想像に難くありません。
(中略)
取次に新刊の見本出しをしたことのある営業マンなら、恐らく誰しも、心情的には似たような「攻防」を経験したことがあるはずです。私も当然あります。

「想像に難くありません」「恐らく誰しも、心情的には似たような「攻防」を経験したことがあるはず」。う〜〜ん、想像が膨らみます。
 
また、以下の記述には、暗澹たる気持ちにさせられる。

ちなみに北川さんの記事にはこんな一節もありました。「新聞広告代理店からも思いがけない反応があった。一面三八ツに出稿しようとしたら、取次が委託しない本の広告は本ではなくて一般物販扱いだから何倍か高い別料金だというのだ」。これにはさらにびっくり。正直そんなことがあろうとは知りませんでした。腹立たしいことです。

 
以下は、上記ページの下の方に、リンクされていた記事。
 
最終的に本を「裁く」権利は、読者にある。  ある編集者の気になるノート 
 

僕も「ウラゲツ☆ブログ」さん同様、本の中身を見ていないので、滅多なことはいえません。
ただ、少なくとも、「残酷すぎて書店がいやがる」「子供が見たら教育上よろしくない」といった取次の人の意見(どこまでホンネか知らないけど)には違和感を感じてしまいます。

 
もちろん、どこまでホンネか分からないし、「残酷すぎる」という言葉に込められた意図もよく分からない。で、僕はこの『テロ死/戦争死』という本を持っていて、確かにすごい本で、「正視に耐えない」と言いたくなるような写真が多く掲載されています。 
ただし、書店の医学書の棚に行けば、結構、僕なんかにすれば「正視に耐えない」ような写真が載っている本がたくさんあります。「残酷」ということは、ここで僕が言っている「正視に耐えない」ということと必ずしもイコールではないのだとは思うけれど*1、そういう中に(医学書の中に)この『テロ死/戦争死』を並べてみれば、それほどでもないと感じられるのではないでしょうか。
 
で、この本が出版された目的の一つは、「目を背けてはいけない」というような倫理的な目的だったと記憶していますが(帯かどこかにそのようなことが書いてあった)、これは医学が(つまり、医学書が出版される目的が)人の命や健康を守る目的にあるのと、そうは変わらないと思います。どちらも、倫理的な要請のもとにある。
 
しかし、医学書が「残酷だ」とか「教育上よろしくない」として配本拒否されることは、まずないでしょう。医学書は人々にとって「必要不可欠」だけど、『テロ死/戦争死』のような本は、そうではないということでしょうか?しかしなぜ、そう言えるのか。
 
この記事のコメント欄の言葉。

これって、トーニッパンさえおさえれば、カンタンに言論統制できるってことを改めて私たちに知らせてくれたわけですね。

なんてこったい。
 
 
以下は、北川明さんが書かれた記事。
『テロ死/戦争死』は死なず

*1:そういう事態が人為的、かつ意図的な暴力によって引き起こされたことまで含めて「残酷」と言っているのであれば、医学的な目的で解体された人体の「グロテスクな」感じと単純に同一視するわけにはいかない。