ちょいと遅いですけど、村上春樹文藝春秋4月号インタビューについて。
 
 
はっきり言ってあまりいい印象は持っていません。

日本で受賞が報道されてから、パレスチナ問題について活動している人たちから問題提起があったのは、有意義なことだったと思いますよ。僕にはももちろん言い分はありますが、どんなことだって賛否両論あって当然だし、たとえ僕が批判の矢面に立ったとしても、パレスチナで起きていることについてより多くの人が興味を持ってくれれば、それはそれで意味があります。大事な問題ですから。

ただ一方で、自分は安全地帯にいて正論を言い立てる人も少なくなかったように思います。たしかに正論の積み重ねがある種の力を持つこともありますが、小説家の場合は違います。小説家が正しいことばかり言っていると、次第に言葉が力を失い、物語が枯れていきます。僕としては正論では収まりきらないものを、自分の言葉で訴えたかった。
(強調は、itumadetabeteru)

 
「正論を言い立てる人」と小説家を対比して「小説家が正しいことばかり言って」いてはダメだと言うという事は、「正論」という言葉を「正しいこと」という意味で使っているのでしょうか?*1
 
しかし、ここで言う「正しい」とはなんのことだろう?村上春樹は「正しい」という言葉を独特な用法で使っているように思えます。というのも、僕には村上春樹自身が一貫していわゆる一般的意味での「正しさ」を追求しているようにしか見えないからです。
 
例えば、彼はスピーチの中で、小説家は嘘をつく、と言っているのだけれど、しかし、そのすぐ後で、巧みな嘘は真実に新しい光を当てることができるとも言っています。言ってみれば、最初の「小説家は嘘をつく」というのは、「小説家は虚構によって(通常はつかめない)真実の尻尾をつかむ」という(当たり前といえば当たり前の)ことを強調したいがための偽悪的な表現に過ぎません。で、真実を追求しようとする姿勢について言えば、これを正しくないなどと言う人は、あまりいないような気がします。
 
また、システムの側でなく卵の側につくことにしたって、このことの正しさを否定する人なんているんでしょうか?もちろん、ここでも彼は「卵がどんなに間違っているとしても」という、小説家らしい巧みなレトリックとしての偽悪的表現を付け足すことを忘れないのですが、もちろん、「卵の側につく」ことは「卵が正しいと主張する」というようなことではないわけで、こんな付け足しは不要といえば不要です。要するに、ここでも正しさが疑われているわけではないのです。
 
このように、ところどころ偽悪的表現が使われ、彼自身も(なんらかの正しさを前提にして(=ドグマ化して)はいても)「〜が正しいんだ」などと野暮ったい言い方は決してしませんから*2、一見、彼は「正しさ」というものを疑っているかのように見えてしまうかもしれません。でも、僕には、それは単なる文学的表現の問題でしかなく、彼は一貫して自分の正しさを文学的に証明しているようにしか見えないのです。もしかしたら、彼は自分が正論を述べていることに気がついていないのかもしれませんが、それだとしたら、色んな意味で憂鬱です。
 
こんなまったく健全で「正しい」ことを小説家に主張された後で、その当の小説家に、正論を言い立てる人がいるが小説家は正しいことばかりを言っていてはいけないんだ、みたいなことを言われても、僕には意味がよく分からないのです。「正論=正しいこと」であるなら、正論を言っているのはあなたではないですか、と言いたくなります。
 
誤解のないように言っておけば、僕は「正論を言っている」ことで村上春樹を批判したいのではなく、むしろ正論だから納得しているのです(限定的に)。村上春樹のスピーチの内容は、浅田真央風に言えば「ノーミス」だったと思います。「ノーミス」でしかないとも言えますが。とても当たり障りのない普通のことを言っていたと思います。「当たり障りがない」なんてちょっとひどい言い方ですけど、でもこれは村上春樹のスピーチが当たり障りがないということであって、やはりあの場でこういうスピーチをしたということに関しては、僕は敬服しております。この点に関してはmojimojiさんの意見に同意です。村上春樹佐藤優を混同してはいけないこと、イスラエルプロパガンダを完成させる/させないのも、問題を解決する/しないのも、村上春樹ではなく私たち自身の問題であること、などにです。村上春樹のスピーチの内容については小田亮さんが解説してくれています
 
 
したがって僕は基本的には村上春樹に文句をつけたいわけではないのですが、やっぱりこういう安易な「正論」批判みたいなものに接すると、ちょっと憂鬱になります。「ネット空間にはびこる正論原理主義」よりも僕は「ネット空間に限らずはびこる正論嫌いという名の無関心或いは自己正当化」の方が怖いですね。或いは「正論原理主義」と言うレッテルを貼ることで、他人の言い分を封じようとする人がはびこらないか心配です(まあ、いつの世でもこういう人ははびこるものと相場が決まっていますけど。偽悪的発言の持つ偽リアリティについてはホームレス問題についての語りの中でも見られたような気がします)。
 
例えば、以下の記事や、それに賛同したり、その前提に同意したりしているブクマを見るにつけ。僕としては『正論原理主義批判』という『正論』の尻馬に乗ることで、自分の優越感を満たしたい人の多さに辟易すると言ったところでしょうか。
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090311
 
 
 
よく「正しさは一つではない」みたいなことが言われるのですが、僕はこれにはまったく同意できません。「正しさ」という言葉を用いた時点で(というよりそういう概念で物事を捉えた時点で)、物事は「正しいこと」と「間違ったこと」に分けられてしまうわけで、「正しい」ことと違うことは「間違った」ことである以外にありえません(これは「正しい」という言葉(概念)の性質の問題でしょう)。「正しさ」は一つです。ただし、私たちに「正しさ」が見極められるかと言ったら、これはなかなか難しい問題があると思います。また、われわれが正しくないことを正しいと思い込んでしまうこともよくあることだと思います。また、原理主義というのは、なんらかの教義や原則に忠実に行為することを言うのであって、その教義や原則が正しいかどうかとは関係がない話だと思います(本人たちは正しいと思い込んでいたとしてもそれは思い込みであって、その教義が正しいわけではありません。また、それが思い込みかどうかを誰かが見極められるのかどうかということも、また別の問題でしょう)。ちなみに「正しさ」とは各種前提ごとに決まるものだと思います。つまり、二人以上の人の間で「正しさ」が決まる(同意されるかはともかく)のは、前提が共有されたときだけということです。

*1:ちなみに僕は「正論」という言葉の意味がわかりません。人によって使い方がまちまちであるように思えるからです。僕の観察の範囲では「説得力がある主張」というような意味で使っている人も多いようです。id:NOV1975さんのこのダイアリには、この「正論」という言葉のわからなさがにじみ出ています。ここでは「正論」を「持論」という意味に解しているように思えます。恐らく村上春樹もそうだし、このような解釈をしている人は多いように思えます。しかし、村上春樹をはじめ多くの人は「正しさ(正義)」アレルギーを抱えているので(或いは、「正しさ」批判をすることが正しいと感じていたり、そうしないと世の中に受け容れられないという圧力を無意識的に感じ取っていたりするので)内容的には「持論を言い立てること」批判なのにそれを「正論批判」であるかのように偽装し、かつ、それを自分でも気がついていないような気がします。

*2:言ったら逆にその「正しさ」が検討されてしまう。当然の前提のように「語る」(つまり「語らない」)ことで、それは読者にとってもドグマと化す。