詩と散文について

id:usauraraさんの詩と散文について三分でを読み、さらにid:cloud_leafさんの詩と散文を読んで、面白そうなので僕も思うところをちょこっと書いてみます。



いろいろ考えたんですけどね、「詩は記述不可能なものであり、散文は記述されたものである。しかし、記述不可能なものはすべて詩ではないし、記述されたものがすべて散文ではない」とか。でも、わけわかんなくなってやめました。



或いは、詩と散文をそれぞれ政治的な運動ととらえ、「詩」とは「強度な現実」をあらわにしようとする運動であり(シュルレアリスム)、「散文」とは「現実について、よく語られること」を再確認する運動、そのように「現実」を歪曲しようとする運動である、現実にフタをする運動である、とか。こういう風にとらえると、「散文」というのは「身も蓋もない」ことが特徴であり、「〜である」「〜でしかない」という志向を持つ。「詩」は逆に「〜ではない」という志向を持つ。



でもこれは「芸術」についてよく言われることでもあります。「既成の概念を破壊しようとするもの」みたいなこと。
うん、そうか。
メロディとかリズムとか音で構成された「芸術」が音楽で、言葉によって構築された「芸術」が詩で、画面に引かれた線や色で構成された「芸術」が絵画で……、で要するに散文ってのは「芸術」的でないもののことか。



しかしですよ。じゃあデュシャンの「泉」はいったいなんなんでしょうね。便器なんて思いっきり「散文的な」ものを持ってきて、しかしそれが同時に「芸術」=「詩」として現前してしまう。これは、芸術の(詩の)自己破壊的な側面を物語っています。つまり芸術は「現実」なるもののアンチテーゼであると同時に、芸術のアンチテーゼでもある。



そういう風に考えると「詩と散文」という区分は、そのように区分すること自体が優れて政治的な行為なのかもしれません。或いは「詩」とは「散文」という仮想敵の上に始めて成り立つものと言ってもいいかも。おそらく「芸術を欲する僕ら」にとって脅威とは現実ではない。そうではなく、「僕らを縛るもの」こそが脅威なのだろう。だから僕らを解放するものが欲しい。それこそが芸術である。ただし、それらは本当に僕らを解放しているのか?もしかしたら僕らは解放されたという実感を得るために、縛られているものを特定する(実感する)必要があるのかもしれない。何に縛られているかが特定されれば、「縛られているもの」を安定して得られれば、僕らを解放するものも僕らは安定的に得られる。だがしかし、それら僕らが実感する「僕らを縛るもの」は、本当に僕らを縛っているものではない。本当に僕らを縛っているものからは僕らは逃れようがない。つまり、「僕らを解放するもの」は、実際にはありえない。だから、その本当に僕らを縛っているものとは別の比較的容易に逃れられる「僕らを縛っているもの」を仮想的に特定する。それこそが僕らを縛っているものだと思い込む。そのことによって、僕らは「解放」されることが可能になる。少なくとも「解放された」と実感することが可能になる。



「詩」とか「芸術」というのは、一種のゲームであり、それは「束縛と解放」のドラマなのではないでしょうか。それを可能にするのが「散文」という仮想敵なわけです。



でも、仮想敵だからといって嫌うというわけではないでしょう。だって、それがなければ「詩」は成り立たないのだから。「詩と散文」は、往復運動を可能にする。「詩」と「散文」の間を僕らは行ったり来たりする。そのことによって、僕らは自由を確認する。不自由な何かと不自由な何かの間の往復運動こそが自由なのではないか。





……どうも、うまくまとまりませんでした。






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追記:

「言葉によって構築された「芸術」が詩」というのは、つまりその……、例えば「小説」という概念は、これはその表現の形態(登場人物や舞台があり、それが明確に示され、時間経過があり、何事かが起こるという形態)を表しているのに対して「詩」とは形態を特定しない、むしろある理念を示す概念であるという意味がこめられています。そういう意味でなんらかの形態を特定しない「芸術」という理念的運動を指し示す言葉足りえると。だから小説の中には「詩的な」描写も「散文的な」描写もありえる。このように「散文」を「詩」というものと対置する言葉ととらえるなら「小説」は「散文」ではない。しかし「散文」をそのようにはとらえず(つまり、理念的な運動ではなく)外面的な形態としてとらえるなら(例えば、「説明的な記述である」とか)、小説は「散文」であると言いうる。「散文」という言葉には、このような二重性があって、「詩と散文」という区分で考えると、そこら辺でどうもややこしくなるような気がします。

経済的な知識以前の意味理解の間違いによる妙な経済的言説の流布

ホリエモンとリーマン破綻 −市場原理主義は間違っているのか?


別にこの人個人をことさらに批判してもあまり意味はないのだけど…。
 
ただ、こういう単なる「言葉の使い方の間違い」による勘違いというのは、世の中にはよく見られる現象だと思うので、その点、この記事は一つの典型例として面白い。



僕は経済にはまったく詳しくない。
それでもこの記事のおかしさはわかる。
それはこの記事のおかしさが経済的知識の間違いからくるのではなく、単に「日本語の理解の仕方の間違い」に負っているからだ。

これは資本主義の失敗なのでしょうか?

そんなことはありません。
これこそが資本主義経済の浄化作用なのです。
世界中から借金をして途方もないレバレッジをかけて世界の金融市場で大博打を打っていた投資銀行は淘汰されたのです。
これは市場原理が突きつけたひとつの答えなのです。


いわゆる「資本主義の失敗」という表現が使われるときに、それが何をしめしているのかは、場合によりけりだろう。けれども、この人が槍玉にあげているものに限っていえば、おそらくそれは「資本主義が正常に機能した場合に起こる悲劇」について言っているのだろう。
 
つまり「世界の金融市場で大博打を打っていた投資銀行」が「淘汰」された際に、その影響が「まともな経営をしている多くの企業」にまでおよび、その経営を危うくすること、そのことを「資本主義の失敗」と言うわけだ。
 
つまり、この記事のおかしさは、「資本主義が正常に機能した場合に起こる悲劇」をさして「資本主義の失敗」と言っている新聞の論調を、「資本主義が正常に機能していない」という意味で「資本主義の失敗」と言っていると受け取っているところにある。

明らかに「経済的な知識の不足」による間違いではなく、「意味を読み取り方を間違えたこと」による間違いだ。








もう一つ間違えている部分がある。

発行済み株式数を10倍にすれば、株価は10分の1になる。
当時はこんな当たり前のことが分かっていない人たちがたくさんデイトレードをしていました。
まさに、日本の株式市場は市場原理がぜんぜん働かないところだったのです。
ホリエモン株式分割を繰り返し、株価をどんどん上げました。
資本主義がしっかりと機能していれば、こんなことはありえません。

本当かな、と思います。
以下のページを参照してみます。

株式分割って何?】

以前、とくに2004年ですね。
このころは株式分割で株価が急激に上昇するということが頻繁に起きました。
原因はこうです。
株式分割をするときに、増える株(子株)は一定期間売買することができなかった。そうなると売り手のほうが少なくなるわけだから、買い手のほうが強くなって急激に株価を押し上げるような事態がおきる。」

こういうことが頻繁に起きていて、株式分割=株価上昇という意味のわからない考えが広まっていたんです。

現在は分割後にすぐに売れるようになったのでそういう事はなくなりました。
ルールのゆがみが株式分割=株価上昇という幻想を生み出していたわけです。

ここでは、「ルールのゆがみが株式分割=株価上昇という幻想を生み出していた」し、実際に「上昇するということが頻繁に起き」ていた、と書かれています。僕もネットで調べた限りですが、この点を指摘している記事は結構見つかります。「発行済み株式数を10倍にすれば、株価は10分の1になる」という「当たり前のことが分かっていない人たちがたくさんデイトレード」をしていたからだという仮説には、ほとんど説得力がありません。



ただし、よりひどいのは、妙な仮説を提示したことよりも、これをもって「日本の株式市場は市場原理がぜんぜん働かないところだった」と言っていることです。これは明らかに「ルールの未整備」をさして言っているのではありません。「人々に知識がない」ことをさして「市場原理が働いていない」と言っているのです。次の部分にもそれは現われています。

・・・こんなことが可能だったのは、市場原理主義が行き過ぎたからと言うのとが正反対で、市場原理主義の初歩の初歩も理解されておらず、ぜんぜん資本主義が機能していなかったからなのです。

「資本主義が機能する」ことは「資本主義に参加する人々の認識」に依存するのでしょうか?それだったらなぜ、リーマンの経営のあやうさを理解できなかった人々の認識の間違いは、「資本主義が機能していない」ことの証拠にならないのでしょう。



でも、この手のおかしな議論って、本当によく見かけるんですよね。「経済的な知識の不足による間違い」ではなく「言葉の使い方のおかしさからくる間違い」。で、そういう人たちが「マスコミの知識を鵜呑みにするな」みたいに言ったりする。誰かが間違っていたとしても、それはそれを批判する別の誰かが正しいってことではまったくないのだけど。



ある種の「マスコミ批判」には、「大衆批判」みたいな心性が隠されているように思えます。「学校では教えない歴史」という発想にも同様の意識が見え隠れしているように思えます。「こういうことが信じられているけれども、本当は」という発想。



昔から「孤高のヒーロー」ってのは大人気ですね。愚かな大多数に対する賢い少数でありたいという願望の伝統。こういう願望は非常に大衆的なものであって、要するに「粗悪なポピュリズム」を槍玉にあげる手法は、ポピュリズムの典型的な手法だという話。上野千鶴子さんが紀伊国屋書店の広報誌「scripta」第7号(2008年spring)に『女のミソジニーミソジニーの女』という記事を書いていて、その中で次のように書いている。

女がミソジニーを自己嫌悪として経験しないですむ方法がある。それは自分を女の「例外」として扱い、自分以外の女を「他者化」することで、ミソジニーを転嫁することである。

これは何も「女」に限らない。自分の嫌悪すべき部分を他者に投影するというのは、人類普遍の方法論なのだろう。

「ホームレス」問題について。

  • 「ホームレス体験」という語りの型について(主に、「体験」とは何か、「解釈」とは何か、について)
  • 「救う」ということについて。

ホームレスについて、さまざまな人が、自身の体験を語っている。
これはその一例。
「ホームレス支援」という差別
この記事を書いたid:noiehoieさんは、自身もホームレスだったことがあるらしい。

僕なりにこの記事の内容を要約する。


ホームレスとハウスレスがある。ハウスレスは年収が年収六百万以上あったりして、これは単に家に住んでないだけでホームレスじゃない。本当のホームレスは、なんにもない。働く気力もないし、ただ浮遊し、息をするのも面倒くさい。こういう精神状態は、通常の人には理解できないだろうが、羞恥心の敷居を下げたらこんな楽な生き方はなく、一度やったらやめられない。そのような状態にいたるには3パターンある。一つは、知的障害があるなどして生活が破綻してホームレスになるというもの。二つ目は、「ホームレス」という職業に就職/転職したパターン。会社の窓からホームレスみてたら、『あ、あれでもOKじゃん』って思っちゃった、というホームレスの話を聞いた。三つ目は、経済的理由でホームレスになるというもの。でも、こういう人は少ない。というのも、(経済的理由だと自己申告していても)大概ウソだから。話を聞いていくと、「ホームレスも選択肢の一つ」って局面を迎えたときに、ホームレスになるという選択肢を拒まなかった人なのだということがわかる。みんな最後は「いろいろしんどくなっちゃってさぁ」って言う。これって、広い意味で「ホームレスに就職したパターン」だとおもう。要するに、ホームレス救済なんて無理。「知的障害パターン」は、悲惨かもしれないが、本人にすれば、施設でお仕着せの生活する方がよほど悲惨。「ホームレス就職パターン」はライフスタイルだから救う必要はもともとない。「経済的理由パターン」にしても「いろいろしんどくなった」から現状にいたっているのであって、むしろもとの苦しい生活に戻してほしくない。



 この手の「体験談」は、結構ある(支援する側の体験談も含め)。つまりホームレスの怠惰、無気力さを強調するもの。ゆえに支援の必要性に疑問が生じるし、自己責任という発想に説得力が生まれる。ただし、当たり前のことだが「体験談」には限界がある。そういう当たり前の視点で記事を書いている人もいる。

たぶん、みんな知ってると思うけど、ホームレス問題を考えるときの前提を、ちょっとメモする。

この記事では、まずホームレスは地方では生きていきにくいと述べられ、ついで大阪、名古屋、東京などの都市のホームレスにどのような違いが見られるかに触れられる。以下は、記事の最後の方からの引用。

何が言いたいかというと、「自分が接触したホームレスはこういう人だった」とか「自分がホームレスをやっていた時に出会った人たちはこうだった」とかの言説は、ホームレス全体から見てごく一部でしかない、ということと同時に、地域差というものを(僕も含めて)見落としている可能性があるよ、ということ。自分のごく狭い範囲の視野に映ったものを過信している恐れがある、ということ。

だから、「ホームレス対策」ひとつ取っても、その地域ごとに取り組み方は大きく違ってくるはずだ。



もうちょっとだけ言うと、ホームレスの人の中には、事実として、日雇い仕事でかなり収入がある人も居るとは思う。しかし、仕事にありつけなくて、缶拾いやコンビニの期限切れ弁当を貰って、なんとか生活している人も多い。開き直って、ボランティア・支援団体の行う炊き出しだけで「生きている」人も居る。それらの実態は、一人の人間が見聞きするだけでは、たぶん掴み切れない。

「体験談」は説得力を持つ。

とはいえもちろん体験とはどこまで言っても「私」の体験であって、それは「ホームレス体験」とはなりえない。つまり、日本中の(東京中の、世界中の)ホームレスと交流を持つことは不可能、という意味で。こんな風に言うのは厳密すぎるかもしれない。でも、こういう基本は基本として意識すべきだと思う(安易な断言への拒絶を期待して)。


すべてのホームレスと交流を持つことができないという以外に、「体験」を疑う正当な理由がある。それは「体験」と「解釈」の間に線が引けないということだ。例えばid:noiehoieさんの記事を見てみると、「いろいろしんどくなっちゃってさぁ」というのは、「ホームレスに就職したパターン」だと解釈されている。が、そもそもなぜ彼らが「いろいろしんどく」なってしまったのかということをid:noiehoieさんはどれだけ正確に理解できるのだろう。「いろいろしんどく感じる人/感じない人」という区分がありうるなら、「人をいろいろしんどくさせる環境/させない環境」という区分だってありうるだろう。もちろん一人一人がどういう環境におかれているか、ということは、なかなか容易に把握はできない。しかし「いろいろしんどく」なった人を「(自発的な選択として)ホームレスに就職したパターン」とみなすためには、「私もあなたも他のどんな人もおかれている環境はたいして変わらない」という前提が必要になるはずだ。こんな前提に、どれほどの妥当性があるのだろうか。


それから、僕なりの人間観を述べると、人には現在の自分を肯定するために気持ちの持ち方をほとんど無意識的にコントロールする傾向がある(ただし、こういう傾向があるということは、他の傾向――例えば、これと真逆の傾向――がないということを意味しないし、コントロールするということは完全にコントロールできるということではない。自分を肯定する価値観、否定する価値観、世の中で力を持っている価値観、論理的な正当性を否定できない価値観などがせめぎあうように自己の中に存在しているのだろう)。例えば、仕事人間は仕事をすることを尊いことと考える傾向を持つだろうし、ホームレスは、ホームレスな状態で(が)いいんだ、と考える傾向を持つ。そのどちらの考えにも、それなりにもっともらしい理由がつけられる(理由は、それとは気づかれずに、あとから調達される)。自分の現状を否定するような価値観を持ちながら生きていくのは、精神的に無理がある。ゆえに世界観や価値観を臨機応変に変化させることで、健康を保とうとする。


そういう観点からすれば、「ホームレスの無気力さ」や「現状肯定」は、現状への精神的な対応の結果と見ることができる。であれば、現状(ホームレスを取り巻く環境)が変わることによって、ホームレスの心境にも変化が生まれておかしくない、ということになる。




余談だけれども、なぜこの問題に「リアリスト」的立場(「理想/夢想やイデオロギーにとらわれた人」なるものに対置させる立場)で発言する人の語彙には、「インテンシブ」とか「フリーライダー」という、「経済問題」用語が多いのだろう(そういう用語で語るということと、「経済」の発想で語るということは違うと僕は思う。つまり、「リアリスト」ってどこまで「リアル」に考えているの?ってところが疑問。偽悪に走ることで、リアルだと思い込んでいるということはないだろうか)。










ところで、上で引用したid:nijuusannmiriさんの別の記事から、引用して僕自身の思うところを少し。

実感として、ホームレスの人たちはいろいろで、その中には本当に深刻に救いを必要としている人も居るし、箸にも棒にもかからないどうしようもない人も居る。だったら、救える人からどんどん救っていけばいい。

よく、行政のホームレス対策に対して批判的な意見で、「それではホームレス問題の根本的な解決にならない」とか、「全てのホームレスを救えない」というのがある。僕はそれに対して、「バカ言ってんじゃねーよ、対症療法なんだから解決できるわけないだろ。それより、救われる人がゼロだった状態からわずかでも増えたんだから、そのことを評価しろよ」と思う。


救える人から救っていけばいい、というのに同意見です。id:nijuusannmiriさんが議論(対話?)していたid:kajuntkさんが「リソースが有限だ」ということを述べていたのですが、ここで問題なのは「リソースが有限」かどうかではなく、「ホームレスを切り捨てることが必要なほどリソースが有限」かどうか、でしょう。一般的に「リソースが有限」というのは、あまりに自明なことで誰でも同意できます。つまり説得力がある。しかし「ホームレスを切り捨てることが必要なほどリソースが有限」かどうかという問題になると、にわかにあやしくなってきます。一般的に言うと、こういう論理的にはつながっていない命題が、さもつながっているかのごとく提出されて、なんとなく説得力を持ってしまうということはよくあることだと思います。


以前、「ホームレスになっても救済されるなら、フリーライダーが増える」ということを言う人がいましたが、これもちょっと極端な意見であるように思います。というのも、ホームレスが救済されると言ったところで、なにも豪華な生活が保障されるわけでもないでしょう。最低限度の環境が保障されるとして、そういう最低限度でもよいと考える人がどれだけいるのでしょうか。


ただ政治や行政を評価するというのは、結構難しいものだったりします。「その分だけでも評価しろ」といっても、問題は行政がポーズとしておざなりな「救済策」を示すことで、幕引きを図ろうとしていないとはなかなか判断できないということです。政治や行政が普段から、まっとうな対応をとっていて信用があるならともかく、そうでないなら、「その程度のことで幕引きにしようとするなよ」的な意見は、当然必要だと思います。



それから、「弱者を食い物にして、利益を貪る連中が許せない」というようなこと(と僕が受け取ったこと)も、kajuntk氏はおっしゃっていたが、それは全くその通りだろう。

僕も、ホームレスを食い物にして利益を貪る自称左翼系の支援団体やNPOは好きではないし、ホームレスに住居らしきものを与えて生活保護を受給させ、家賃や食費や光熱水費などの名目でその生活保護費のほとんどを巻き上げるようなヤクザや右翼のフロント団体みたいなNPOも嫌いだ。

でも、そういう連中と現実に共謀しているホームレスも中には居るかもしれないが、そうでなければ、そういう連中とホームレスそのものを同一視することはない。また、そういう連中に比べれば、ホームレスがボーダーの人から搾取する利権なんて可愛いもんだと思うが、どうだろう。間違ってるなら、誰でもいいので、具体的に指摘してほしい。


ここにも同意できます。フリーライダー警戒論についても言えるのですが、必要なのはフリーライダーや利権を貪る連中を「排除する」ことではなく、そういう連中を「必要な程度に排除する」ことなのでしょう。僕の印象の限りで言うと、どうもフリーライダーとか利権という言葉のドギツサが、「程度問題」というまっとうな論理を抜け落ちさせる原因になっている気がします。そもそもフリーライダーや利権などといったら、これはあらゆるシステムに存在するはずです。でも、ある程度のものは、必要悪として看過される。だとしたら、ある場合にだけ、潔癖にそれらを排除しようとするというのは変です。












それからこちらは、図書館問題に立ち返った記事。

本が好きだから思うこと

大阪府の図書館に行ったご自身の体験が紹介されたあと、以下のように「今回一連の議論をみたあとの現在の感想」が述べられます。

・現場が困っているのは主に「匂い」である。(怖い、見苦しいではない)

・それは決して目障りな利用者を排除したいがための口実ではない。(臭くて居られないは大げさではない)

・図書閲覧の権利は納税の有無に関わらず全ての人にあり、その円滑な運用が滞る事態があって現場だけでは解決が困難なのなら、もっと上のレベルで早急の解決策が必要という現状の認知を多くの人にしてもらうことが大事だ。


さらにid:usauraraさんは別の記事で、以下のように書かれています。

本が好きだから思うこと 2    〜「怖い」ってなんだろ

「ホームレスが怖い」という気持ちが私にも全く無いわけではない。
が、上で述べているように自分の家族がそういう状況に転落するやもしれぬ危機感を
現実に抱くようになってからは、ずっとそれが和らいだと思う。
何故かというと、関心を持ち始めて何かと情報を得てみると世間で言われるホームレス像が
100パーセント実態を映していないと思うようになったからだ。
「怖い」は「知る」ことで少しだけマシになる。「怖い」と言う人にまず、一番勧めたいことだ。



とはいっても完全に払拭は無理だろう。どうすべきか。




私はそれは我慢すべきであると思う。

「匂い」については対処すべき(対処≠排除)とし、「怖い」については我慢すべきという。この区別こそが重要だと思う。「ホームレスだから排除/救済」というのでなく。

図書館とホームレス  当初の論点から脱線気味に

論点が錯綜していて、少し整理しないと私自身混乱してしまう。



そこで少し論点を箇条書きにしてみる。

  • ホームレス問題への対策として、図書館が女性専用席を設けることの是非
  • 「迷惑利用者(≠ホームレス)」対策として、図書館が女性専用席を設けることの是非
  • ホームレス対策として、図書館が、排除とまでは言えない、なんらかの方策を取ることの是非
  • 「迷惑利用者」対策として、図書館が、排除とまでは言えない、なんらかの方策を取ることの是非
  • ホームレスを図書館から、なんらかの形で排除することの是非
  • 「迷惑利用者」を図書館から、なんらかの形で排除することの是非
  • ホームレスをなんらかの形で、公共のスペースから、排除することの是非
  • 「迷惑利用者」をなんらかの形で、公共のスペースから、排除することの是非
  • ホームレスに人権はあるか
  • 「迷惑な人物」に人権はあるか
  • ホームレスに対してなんらかの「支援」をすることの財政的な問題

ところで、「仮に『ホームレス』を排除することは不可でも、『迷惑利用者』を排除することは可」というもっともらしい結論の問題点は、二つある。

一つは、「迷惑」をどこで線引きするかの問題。
もう一つは、「迷惑利用者の排除」という建前のもとに、「ホームレスの排除」が進む可能性があるという問題。






ところで・・・



私は、これらの問題に対して、さほど明確な意見は持っていない。というか、持てないでいる。正直、分からない。



ホームレスなのか「迷惑利用者」なのかはともかく、他人を怖れる心理は私自身にもあるし、「それはあなたの差別意識が生み出したもの」なんて言われても、違和感が残る(まったく的外れとも思わないけど)。何かあってからでは遅い、というのは、まったくの真実だ。しかし、だからといってセキュリティをどこまでも徹底する(なんらかの排除をともなう形で)ことに正当性があるとも思わない。



ホームレス、或いは、「迷惑利用者」を排除すべきという結論を正当化する論理は、様々に組み立てられるだろう。しかし、同様にホームレス、或いは、「迷惑利用者」を排除すべきでないという結論を正当化する論理も、様々に組み立てられる。両方組み立てられるということは、両方ともに絶対的な正当性はもちえないということだ。



そういう意味では、これは論理的には解決不可能な問題だと私は思っている。だから最終的には、現実的な感覚から言ってこれこれこういう方法が妥当だろう、という結論にいたらざるをえない。



こう書くと、要するに「他人に対してどのように接するべきか」(なんて問題を思いっきり抽象化しちゃったけど)については、個人個人がそれぞれ自分の「現実的な感覚」で、好き勝手に判断すればいい、行政的判断も結局は、そういう個人個人の感覚の集積なのだから、同じようにすればいい、と言っているように見えるかもしれないけど、もちろんそうではない。



最終的には、感覚的に妥当なところを見出すしかないのだけど、肝心なのは、それ以前に、「論理的には、どのような立場も正当化しえない」ということを意識することではないだろうか。だから排除するにしろ、排除することを拒絶するにしろ、すっきりしない。



で、論理ってのは、ときに、すっきりしたいがために組み立てられているように私には思える。でも、こういう公共の問題に関して、安易にすっきりしてもらいたくない、というのが私の思うところ。というか、この問題については今のところ、それくらいしか明確な意見は持ち得ないので、結局私の意見は「安易な正当化」に対する単なる論理的な反論に終始するのだろう。で、こういうスタンスを取ることは(そこにとどまることは)少なくとも今のところは、妥当だと思っている。



ところで「仮に『ホームレス』を排除することは不可でも、『迷惑利用者』を排除することは可」という論理の問題点はすでに書いたが、この論理ってものすごくすっきりしているなあ、というのが私の印象。これに寄りかかって、ある種の「排除」の正当性を自信を持って主張している意見は、危ない。






図書館とホームレス問題の先行事例についてで、いろいろ紹介されていた。読んでみたい。

図書館がホームレス排除に苦心しているとかいう件についての私からの提案
への応答である
ホームレスに人権があるだなんてただの屁理屈だよ
から引用。

違うよ。ホームレスを「公共空間における悪臭」として(でもなんでもいいからとにかく)「排除」することによって、世の中が成り立ってるんだよ。人間は神の前でみな平等という考え方は、もしかしたら世の中の本質かもしれない。しかし実存は本質に優先するのだ。

しかし「ホームレスを〜〜世の中が成り立ってるんだよ」というのは、ほんとうなのでしょうか?まあ、本当かもしれません。ただし、ちょっと違うと思う点が二つあります。



一つ目は、もとのid:Romanceさんの文章は「ホームレスを排除の対象としか思えないこと」を「恐ろしいこと」と言っているのであって、「排除によって世の中が成り立っているわけではない」ということを主張しているわけではない、ということ。「現実がどうあるべきか」という発言に対し、「実際はこうなっている」と応答するのでは、話しが噛み合っていません。



二つ目は、「世の中=社会」が(現実として)排除してしまうかどうかと、「国家がそれに加担するかどうか」は別の問題だということ。現実は、「綱引き」であって、例え「社会」が(というか、「ある集団」が)何かを主張したとしても(ホームレスの排除を主張したとしても)「国家」がそれに耳を貸さずに放置しておく、ということはよくあることだし、それは場合によっては、一つのテクニックとして採用されてよいと思います。


国家による生存権保障っていうのは権力を維持するための、ただの手段だよ。それが世の中の真理だから国家はそうせざるを得ないのではなくて、それが権力を維持するのにたまたま都合がいいから利用しているだけ。

妙な対比が行われているように思えます。つまり、

  • 生存権保障が世の中の真理だから国家はそうせざるを得ない
  • それが権力を維持するのにたまたま都合がいいから利用している

という二つの考えが並べられて、前者は間違い、後者が正しい、と主張されています。別に、この主張自体に異論はありません。ただし、やはり論点がずれていると思います。もとのid:Romanceさんの主張は(いや、別にid:Romanceさんの主張がどうであろうが、関係なく)「現実にどうか」ではなく「どうすべきか」についてのものでしょう。つまり、現実には後者が真実であったとしても、「国家は生存権保障をすべき」という主張は、それとは関係なく成立したりしなかったりします。



それが(「生存権を保証すべき」が)自明ではない、という意見には同意できますが、「そもそも国家は都合よく利用しているだけ」というのは、その論拠にはなりえないでしょう。


ホームレスにも人権があるというのは、まったく自明ではないと思う。ホームレスが道徳的規範からはずれた概念であることは確かだし、それを「排除」することによって成り立っているものもある。一方で、国家が提唱する人権とは、その系譜から、そもそも構造的に矛盾したものだ。

これもあまり正確ではないと思います。基本的人権として言われるようなものも、明らかに一つの道徳規範たりえます。上の文章を見ると「国家が提唱しているものが道徳的規範と矛盾している」と、まるで世の中には道徳規範がたった一つしかないように読み取れます(id:chnpkさんがどう考えておられるのかは、よく分かりませんが)。しかし、実際には、世の中には「資本主義を成り立たせている道徳的規範」以外にたくさんの道徳的規範を抱えています。つまり「ホームレスを排除する」ことを正当化する道徳規範とそれを否定する道徳規範が並存しているのがこの世の中なのであって、だからこそ国家はそのどちらにもいい顔をしている(「基本的人権」をかかげながら、「勤労」を国民の義務としたり)。



(1)ホームレスという概念が社会的に排除されることは必然的であって、(2)人権という概念は国家が生み出した欺瞞である。(3)よって、「ホームレスに対する保障を強化しろ」という類の言説はそういう国家の欺瞞に乗じた単なる屁理屈であり、(4)そんなことをしても国家の暴力性が助長されるだけである。(5)じゃあどうしたらいいのかっていうと、社会を強化する(みんなで考える)しかないよね(佐藤優「国家論」)。

このうち、(2)がよく分からない。国家が「人権」という概念を生み出し、それを欺瞞的に用いたとしても、「人権」という発想自体が、なんらかの欺瞞性を有しているわけではないでしょう。むしろ、「人権」という概念は、国家が生み出したものでありながら、その国家の欺瞞性を暴露する力を持っているように思えます。



そういう意味で(3)を見るなら、かような言説が「国家の欺瞞に乗じ」ていることは確かだとしても、だからといってそれが「屁理屈」であるとはいえないでしょう。なぜそれで(4)で主張されるように国家の暴力性が助長されるだけなのか、その筋道がさっぱり見えてきません。なぜなら、人権という国家が生み出し欺瞞的に用いてきたものは、その国家の暴力性自体も否定するような構造を有しているのだし、それゆえに、それをどのように運用したらよいかということについて常にジレンマを抱えざるをえないものだからです。そもそも国家が暴力的であるのと同じように国民だって暴力的なわけで(国民と国家を分けられるのかよく分かりませんが)、その双方の暴力性に対して一つの防波堤として「人権」概念は、有効だと考えます。



「人権」の出自がどうであれ、それは生み出された瞬間から一人歩きをはじめているのであって、単純に国家の暴力性を助長するだけのものではないと思います。「人権」的発想のもとに暴力が行使されることがあっても、それはその行使する者が「人権」を欺瞞的に使用しているということであって、「人権」自体の欺瞞ではありません。それなのに、その「出自」とか「使用するもの(国家)の欺瞞性」という間接的な断片をもちだして、「人権」自体を過剰に危険なものののように見せかけようとするのは、単に、そういう普遍概念の影響力を弱め、「伝統」とか「国家」とかそういうものを復権させたいと願う者の用いる屁理屈のようにしか思えません。

2008年7月5日(土) そもそも君らに個性などない、のか?

地下生活者の手遊びさんの記事、「個性と個体差の違いがわからないのは文化とはいわない」を読んで、ちょっと思ったこと。



記事の内容のいわんとするところには、ほとんど異論はない。



ただ、最後に結論付けられた「ガキに言うべき警句」四か条なんだが、有効ではあると思うが、別にこんな言い方をする必要もないし、正確でもないような気がする。

  • 感性とか言っていいのは、感性の鋭い奴だけ
  • 他人と同じことができるようになってから、他人と違うことをすると言え
  • そんなに他人と比べられたくないのか?
  • そもそも君らに個性などない

「そもそも君らに個性などない」というのは、半分は同意できるし、半分は同意できない。
「個性」と「個体差」を分ける、というニュアンスは分からないではないが、これらはそんなにはっきりと分けてしまえるものだろうか。
その上で、生得の「個体差」プラス生得でない「環境差」。これらは人の独自性を生み出しうるだろう。「環境差」とは、姉と弟は、互いに「姉がいる環境」「弟がいる環境」を享受できないという環境差に生きている、というところまで含めている(細かすぎるか?)。
が同時に、周囲の環境は「言語」や「文化」というベースを与えることで、人を無個性化するものでもある。姉と弟は同じ家族の中で、同じ文化にさらされている。
そういう周囲の環境から多くを吸収して成長せざるをえない我々は、好むと好まざるとに関わらず、無個性化されると同時に、個性化されているとも言える。



僕も直観的には、無個性化の効果の方が大きいと思うので、地価猫さんの言っていることに概ね同意できる。
ただ、「私の個性」なるものに取り付かれている人がある勘違いに囚われているとしても、その勘違いは「ないもの(個性)をあると勘違いしている」のではなく、「凡庸な『ある感じ方』を個性的な感じ方と勘違いしている」というものではないか。



人の周囲との関わり方には二つありえるだろうと思う。一つは、周囲に対してリアクションするやり方。もう一つは、周囲と同じアクションをするやり方。後者は模倣であるのに対し、前者は独自でありうる。
ただし、リアクションの仕方自体が模倣ということもありえるし、ありえるどころかリアクションの大半は模倣だと思う。笑い方や怒り方も含めて。



そして人は、せっかく与えられた「差異」を自ら積極的に無化するように、凡庸で便利な感性や方法を周囲から学び、そして、その凡庸なアクションやリアクションで組み立てられた言語世界の内から、無理矢理「個性」なるものを調達しようとする。だから結果として、(訓練をつまないものは)個性を求めながら凡庸に至ることになる。



だから多分個性を生み出す、或いは、個性が生まれてしまうルートには二つあって、それは自分が(無意識のうちに)積極的に無化しようとしてもなお消えない部分から生まれるものと、逆に、凡庸で特殊な訓練を積む中から生まれるもの。
そして多分、前者はコントロールできない。だから自分がコントロールできる範囲では、選択肢は後者しかない。



他人の言葉や行動が、自分の欲望のありかを教えてくれた、という経験は誰にでもあるのではないか。我々の欲望は「形」を与えられなくてはならない。「形」を与えるものこそが技術だし方法だ。生まれたときから周囲に満ちている言語や習慣も、方法や技術の一つではあるが、それは限られた必要を満たすためだけのものであって、そんな日常レベルで学べる範囲では精度が低すぎるし、むろん凡庸であることは免れない。
美術にしろなんにしろ、特殊な業界の基礎訓練とは、技術や方法を学ぶことだろう。それを学ぶことによって我々は自分の欲望のありかをより精確に発見するし、それを表現する方法も発見するのだろう。



蛇足かもしれないが、これは特殊な業界の基礎訓練の話しであって、一般的な学校教育には当てはまるとは限らない。つまり数学という特殊業界には数学の基礎訓練があるべきだろうが、それは数学を学ぶことを前提とした話しであって、数学を学ぶ必要がなければ、もちろん数学の基礎訓練も必要はない。
地下猫さんの記事のブクマコメントの中に、「教育というのは「個性」と呼ばれる「個体間の差異」を埋めて社会に適応させるのが目的のものだ」というのがあったが、これは地下猫さんの意図とはなんら関わりのない論点だ。
地下猫さんが言っているのは、個性を発揮したい者がいた場合に何が必要かということであって、「個性を埋める」教育なるものを肯定しているわけではない。



教育は本来、方法、技術(数学なんかでは「考え方」)を教えるものであって、答えを教えるものではないと僕は考えている。方法や技術を習得することは、個性を発揮するきっかけを与えうるもので、一方的に個性を埋めることにはならないだろう。始めから一つの答えしか許さないことが決まっているような教育は、愚かしいとしか言いようがない。